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                  外国人の国内旅行と通弁(通訳案内業者)ー明治期において

 明治期の通弁については、既に上田卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」 (『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)、上田卓爾「案内業者と通弁巡査について : 行政は外国人からの批判をどのように受け止めていたか」『日本観光研究学会全国大会学術論文集』26、2011年12月)、上田卓爾「外国人案内業者に関する新たな知見について : ガイドの画像と外国人の記述から」(『日本観光研究学会全国大会学術論文集』28、2013年12月)、真子和也「通訳案内士制度をめぐる動向」(『調査と情報―ISSUE BRIEF―』890号、2016年1月28日)などの貴重な先行研究がある。

  ここでは、これら先行研究を踏まえ まず、第一に、明治期通弁にはいかなる特殊性や諸問題があったかを一般的に確認しつつ、当時の通弁の実例から通弁の類型化を試みる。

 第二に、当時の通弁に関わる資料を通して、英語が得意な女性らがこういう諸問題のある通弁を目指す動きがあったのか、あったとすればそれはどのような問題を提起したのかなどについても触れたい。

 第三に、既に通弁弊害としてホテルや外国人から不当に「手数料」などを取ることなどが指摘されている事を踏まえつつ、通弁固有の問題とはそれだけではないことを明らかにする。そこでは、いくつかの「醜悪」事件などを通して、一部通弁に見られた通弁特有の非倫理的問題にも言及されよう。

                          一 外国人の国内旅行

                         1 条約規定ー通弁の義務化

 安政5年6月19日に日米修好通商条約の第七条で、外国人押し込めの伝統的政策が貫かれ、神奈川、箱館、神戸居留地から十里四方の遊歩のみが認められた。日本にはこれをのみこませる内的力量があったということである。そして、「キて里數は各港の奉行所又は御用所より陸路の程度」であり、「一里は亞米利加の四千二百七十五ヤルド(3909m)、日本の凡三十三町四十八間一尺二寸五分に當る」とされた。

 ただし、長崎のみは、自由遊歩地域は、「御料所内(長崎市街及び浦上山里、淵村を含む幕府領)に限られ、他開港場と比べ狭く、外国側は拡張を要求し」、「明治12年、五島列島及び北松浦郡を除く長崎県全域に拡大(凡そ十里四方)」した(宮崎千穂「不平等条約下における内地雑居問題の一考察―ロシア艦隊と稲佐における「居留地外雑居」問題―」『国際開発研究フォーラム』27、2993年8月)。

 こうした外国人の押し込め政策については、外国側は不満をもっていたが、明治政府は外国人押し込め政策を引き継ぎ、国内自由旅行制限の全面撤廃はしなかった。明治7年5月31日には、「外国人内地旅行允準条例」(『太政類典』第二編第八十一巻)を定めて、内地旅行を容認する場合として、第一遭難外国船舶の救済、第二日本固有製作物調査、第三日本物産の学術調査、第四星座調査・地理調査、第五療養(三十日又は五十日の日数を限り仮令は横浜、箱根、熱海、富士、日光、伊香保を許し 兵庫は有馬、琵琶湖、比叡山、南都の諸峰を許し、長崎は五島、島原、箱館は札幌までを限り許可する」)、第六 お雇い外国人の「便用の場所」への旅行、第七 「冬天航海の便船」が得られない時、第八 内地従事のお雇い外国人が家族を呼び寄せる場合など、第九外国名士、第十「日本平民鉱山発掘、牧場?定」のために外国人派遣する場合などを具体的に列挙した。

 さらに、第十一で、「免許を与えたる内地旅行せしむる外国人旅行に付 欠くべからざる従者は其公使証明の上、付行を免すへし」と、内地旅行外交人に従者を認め、第十二で「外国人の内地旅行を許す時、政府雇入れの者は、その雇の庁より通弁を添へ、平人も同様なり。彼方の願によるものは、言語通否相糾し 其者の身分 又は事の軽重により官より之を添るもあり。又は自己の通弁を伴ふもあり。経歴(旅行)の間の不都合を避けんか為に必す之を伴ひ到るへし」と、外国人の内地旅行には通弁を必ず随伴させるとした。従者は任意で、通弁は必須とされ、通弁を従者を兼ねさせることが一般化した。

                           2 旅券申請 

 こうして、外国人が十里以内という「遊歩規程を越えて日本内地を旅行するためには、日本の政府機関が発行する内国旅券を取得しなければならない」(アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳『明治日本旅行案内』上巻、カルチャー編、平凡社、1996年、20頁)ことになった。つまり。居留地から十里内は「旅券なしで住んでいられ」、「東海道線の横浜を発して終着の国府津でも旅券は不要、東京は開港場ではないが、自由に往来でき」、「箱根、宮ノ下、熱海には旅券は不要である」(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年、32−3頁)が、「日本の他の地域を訪問」するには、公使館から旅券を交付してもらい、「御雇い外国人はそのまま雇用主を通してもら」(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年、33頁)わなければならないのである。

 この旅券の申請方法は、旅行目的地と帰属国によって多様となった。即ち、@「京都、奈良、琵琶湖への内国旅券」は、「英国人は領事館を通じて申請し」、「他の外国人は直接申請」して、「兵庫の県知事から受領でき」、A横浜居住者以外は「宮ノ下、箱根、熱海への内国旅券は横浜で同様の手続きで取得でき」、B「長崎では嬉野温泉と武雄温泉へ行く内国旅券は一度に入手することが可能であって、英国人は英国領事館へ依頼し他国人は直接申請する」とする。「その他すべての地域への内国旅券の申請に際しては、その必要期間、希望地域(「無用のトラブルを避けるために地域または県名のみを書き込むべ」し)、旅行の目的(健康保全とか科学的調査など)を記入した上で、領事館に提出しなければならない」というものであった。そして、内国旅券は「交付を受けた領事館に返却しなければならない」(アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳『明治日本旅行案内』上巻、カルチャー編、20頁)とされた。

 そして、明治7年5月31日「外国人内地旅行允準条例」の第三、第四の理由が最も無難であり、アーサー・クロウ(英国の商人)は、外国人は、「内陸地方に行く」には「病気か植物の研究」、「科学的調査」で「パスポート(旅行免状、三ヶ月有効)を取得」するとよいとし、彼も「畿内・東海道・東山道、及び北海道」の科学的調査を目的とするとした(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』雄松堂出版、昭和59年、75頁)。

 旅券は「申請によって公使館で贈与され」、「それが不可能な場合は、旅券が必要とされる場所の環境や条件を説明した書き付けを公使に書く」事になる。申請が認められれば、旅券は「県庁か横浜の領事館で少額の料金を払えば、発行される」(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』33頁)。

                           3 ルート設定

 訪問時期 明治20年代、チェンバレンは、訪問地の選択基準は「自然の美しい景色、旅行者がみたい主要品を造っている人、それからある程度健康によいこと」であるとする(B.H.チェンバレン『日本旅行案内』45頁)。そして、訪問時期もこれに連動して、「素晴らしい桜の花の盛りをめでることができる」から「四月の第一週に東京か京都にいてほしい」とし、10月末から11月初めの京都も「秋の葉が紅葉している」から、おすすめであるとする。そして、「日光、宮ノ下、有馬、雲仙、あるいは蝦夷か本州内部の山岳地帯」は、「6月から10月までの時期以外はすすめられない」(B.H.チェンバレン『日本旅行案内』41頁)とする。

 交通手段 さらに、チェンバレンは交通手段について、「長い個人的経験に基づく忠告」として、「汽車に乗るのが、どこでも便利であ」り、「汽車の利用できない平地では人力車に乗るのがよ」く、「神経をがたがたにされたり、骨にひびくので、馬車をさけなさい」とする。そして、「健康な人なら人力車と徒歩の旅の方が一番快適である」(B.H.チェンバレン『日本旅行案内』43頁)とする。

 訪問地、交通手段などを決めたら、通弁ガイドなどと相談して、領事館などに備えられているルート表や、サトウ『明治日本旅行案内』紹介のルートなどを参照して、ルートを決めて、報告しなければならない。

 ルート設定 チェンバレンは、「日本の官庁は、概して旅行ルートや目的を正しく書くように主張する」から、「結局、旅行者が予定の場所を訪れなくても良いのだから」、申請旅行者は、@「本書(『日本旅行案内』)のルート編の初めにある旅程表の見出し部分と主要な場所の地名を書き写」し、A「日本に住んでいる友人に相談」して、「できるだけ細かく道筋や訪問地を書類に書いて申請」する事が重要だとする。「このやり方は役人からたいてい決まって拒否されるであろう」が、「パスポートは、『一定の』あるいは『正規の道筋』という用語のあるルートに対して発行される」ものだともする。「そのリストはイギリス及びアメリカの公使館に備え付けられ」、申請者の便宜をはかっている(B.H.チェンバレン『日本旅行案内』33−4頁)。

 アーネスト・サトウは主要ルートは25コースあるとする(アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳『明治日本旅行案内』上巻、カルチャー編、36頁)。つまり、@横浜―金沢―鎌倉ー江の島 人力車、馬車、A横浜―東京(増上寺、勧工場、精養軒、上野、浅草)、汽車と人力車、B往路に宮ノ下;横浜ー三枚橋(ー宮ノ下ー富士ー大地獄・箱根・芦之湯ー横浜(36頁)、C往路に宮ノ下;富士登山コース、D帰路に宮ノ下:富士登山コース、EF東京から甲府、G横浜から日光(37ー8頁)、H横浜から日光など北関東旅行(38頁)、IーR東京から京都、大阪、伊勢への旅行(38−9頁)、Sー24長崎から周辺地方への旅行(39頁)、25函館からの周辺旅行(39−40頁)である。

 ルートに記載のない地には宿泊できない。例えば、明治26年10月下旬に、コジェンスキーは名古屋を訪問し、「大津に一晩泊まりたかったが、そこは私たちの書類に記載され」ず、「記載のない町には宿泊できないので・・大津からはほど遠からぬ京都に直行しなければならなかった」と述べている(吉田達矢「外国人からみた明治時代の名古屋」『名古屋学院大学論集』56−1、2019年7月)。

 また、チェンバレンは、「パスポートが要求する期間」は、一般に一か月から三か月としておくのが賢明」とする(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年、34頁)。

  では、こうして交付される旅券とは実際にどのようなものかについて、東京帝大医科大学教授ベルツに発行されたもの(豊川市医師会史編纂資料第四集『ベルツ花子関係資料』平成2年2月)で見ておけば、下記の通りである。従者、通弁の記載はなく、あくまで当事者の国籍、姓名、身分、寄留地名、旅行趣意、旅行先及路筋、旅行期限のみである。

         「ベルツの旅行免状」

        「国籍     独逸
         姓名     Dr.Baelz(ドクトル ベルツ)
         身分     医学教師
         寄留地名   東京
         旅行趣意   学術研究
         旅行先及路筋 東京を発し武蔵上野下野信濃岩代越後羽前の国々へ順路往復
         旅行期限   明治十一年七月二十五日より三ヶ月間
         右は独逸国公使の保護を以て前書掲載の場所へ旅行致し度旨申立差許候条道筋無故障相通可申事
         明治十一年七月廿四日 外務省印」
         「欄外に「割印」「明治十一年八月一日二宮平八方に泊」

                         4 旅先警察への届け出 

 サトウは、「内国旅券は警察や地方の小役人との間でトラブルを起こしやすいので、従者に持たせ適宜使用するよう指示しておくのがよい」((アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳『明治日本旅行案内』上巻、カルチャー編、20頁)とする。条約では、旅行外国人に旅券を届け出る義務はなかったが、警察は旅館主にそのことを届け出よという通達でもしていたのであろう。

 これは、明治12年12月18日に多治見を訪れたサトウの指摘からも確認される。つまり、彼は、「(主人の留守中)宿に落ち着いたのだが、その後彼(=宿の主人)がやってきて言うには、外国人がきたことをあらかじめ警察に通知してからでないと泊めてはいけないと、警察から沙汰を受けているのだそうだ。しばらくして警察が私を尋問にやってきたが、そのような決まりはないと否定した。しかし宿の人の言ったことのほうが本当のような気がする」と記している(吉田達矢「外国人からみた明治時代の名古屋」『名古屋学院大学論集』56−1、2019年7月)。クロウも、宿泊時には旅券をホテル・旅館に預け、ホテル・旅館はその旅券を写して「警察に届けるよう義務づけられている」(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』雄松堂出版、昭和59年、75頁)としている。

                        二 明治初期の通弁「教育」

 通弁参考書 明治10年代から、外国人、特に英語圏の外国人が増えるにつれ、英語通訳・通弁の必要が高まり、通弁業の書籍や学校が登場し始め、民間でその需要を充たす動きがでてきた。

 例えば、明治16年5月31日付『朝日新聞』広告に、「稲垣先生編著『交際商用 英仏通弁自在』」65銭について、「右は客冬初版売出しの節 広告せし如く英仏相対訳の通弁書」で、「交際の部は応対、夜会、飲食、遊戯、旅行等に要する会話を掲げ」た。発兌元は芝露月町15番地、売捌大坂本町四丁目岡島真七とあり、大阪での販売である。

 この『英仏通弁自在』(国会図書館デジタルコレクション)の第一編第五章「旅行」の部をみると、ただ「旅行」関連文章42がアットランダムに掲載され、英文の上にカタカナのルビが付されているだけで、当時の通訳案内業者には実用的効用は低いものであろう。

 明治17年8月17日『読売新聞』「広告」に、表神保町中西屋は東京神田神保町の沢屋蘇吉著「英語通弁独稽古全一冊 郵税共金34銭」とし、「右は英和対訳にして英語に片仮名を以て其音を付したるものなれば英語に志ある諸君は陸続御請求あらんことを請う」とした。明治20年2月24日『朝日新聞』広告にも沢屋蘇吉著『英語通弁独稽古』が掲載され、「代郵税共 金十二銭」と大幅に定価を下げている。

 『英語通弁独稽古』(国会図書館デジタルコレクション)では、「挨拶」、「伺候」、「朝飯」、「茶之会」、「晩飯」、「飲酒」、「学校」、「教場」、「手紙」、「買物」、「魚」、「時計」、「早朝」、春夏秋冬、「両替」、「尋道」、「訪人」、「針仕事」、「火」、「果実」、「花」、「植物」、「散歩」、「雨」、「雨後」、「朋友と対面」などに関する英文例が記載され、カタカナが付されている。これも、一方通行的であり、実用性は乏しかったであろう。何よりも、これではヒアリングの学習ができず、対応力が涵養されないから、英文を暗記していても、会話は続かないであろう。さらに、旅行の項目はなく、案内業者には一層実用性は乏しかったであろう。

 明治18年6月9日『読売新聞』広告では、神田西福田町壱番地 伊藤誠之堂が「英人ダムソン氏閲 英語通弁会話案内」を刊行するとした。『英語通弁会話案内』(国会図書館デジタルコレクション)の目次を見ると、「基数」、「順数」、「集合数」、「月表」、「週旬数」、「時」、「元素」、「人類」、「朝飯前」、「朝飯」、「昼飯」、「茶会」、「散歩」、春夏秋冬、「伺候」、「鉄道」、「英語」、「演劇」、「時」、「歳」、「朋友と対面の話」、「玉突」、「雑話」、「請取及び手簡」が取り上げられている。『英仏通弁自在』、『英語通弁独稽古』等をも参考にしているようで、英国人の校閲を受けているというが、前二著と同じような限界が指摘されよう。

 通弁学校 明治17年10月には、「英語学速成を以 外国人と通弁学を昼夜共教授 京橋区銀座一丁目従七番地 英学速成校」(明治17年10月2日付『読売新聞』広告)と、通弁育成の学校も設立された。明治19年12月18日『読売新聞』は、「奨業舎」記事で、「通弁翻訳の一課を設け、その事務は英学速成校長友常穀三郎氏が担当」し、「頗る好評」であるとした。この「奨業舎」は、東京日本橋通四丁目二番地にあり、明治19年12月18日『読売新聞』広告では、「外国交通日に益々繁く内地雑居も亦近きに挙行せらるるが如し。是時に方り諸君は外国人に関する書面の贈答、其他百般の事、随って生じ其不便を感ずること鮮少ならざるべし」とした。しかし、こういう英語学校だけで身につけた英語は、公使館、英米人家庭などで英米人との会話で習得した英語とは異なって、ほとんど通用しなかったであろう。後にこの点は通弁面接過程から確認されよう。

 明治20年9月4日付『朝日新聞』広告によれば、京都の日本英文学会本部が『正則通弁英学』という自修書を刊行している。「本会発行の自修誌は他の独修書と同じからざるは内外諸学士の賞賛する所」として、入会を勧めている。しかし、「正則英語学校(明治29年)だとか外国語学校だとかを卒業した人がガイドをやって居って、むづかしいものなら読み書きも出来ませう」が、アメリカ人の話す英語を正確に理解することはできなかったのである(上田 卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」)。

 明治41年には、世界的大博覧会の準備として東京府が主導して通弁育成の私立実用夜学校が提唱される。41年8月に、東京市教育会は、『東京教育雑誌』第222号に「東京市教育会附属私立実用夜学校生徒募集広告」を出し、日露戦後に「欧米人の我か邦に渡来する者頓に増加」し、「殊に明治四拾五年には我か邦空前の事業とも謂ふべき世界的大博覧会の開設せらるゝあれば、之を機として漫遊を試むる者今日に幾百千倍するや必せり」として、通訳・ガイドの不足による外客問題の深刻化を指摘する。そこで、「通訳・ガイド・店員等の養成」のため「私立実用夜学校を設立し、実用と速成とを旨とし主として英語会話・欧米の風俗・慣習・礼法等を教授」し、「最良なる通訳・ガイド・店員を養成」したいとする(『渋沢栄一伝記資料』26巻、821−2頁)。従来の学校での通弁教育の限界を打破するべく、本格的な通弁実用教育が打ち出されている。

                      三 通弁(通訳案内業者)採用の過程

 明治7年5月31日「外国人内地旅行允準条例」の第12条で内地旅行外人には通弁随行を義務づけられた事から、条約改正前には内地旅行外人は通弁の確保が必要となった。ここでは、内地旅行外人がどのように通弁を面接し、通弁といかなる旅行をしたのかを見てみよう。

                          1 英語通弁
          
                    @ イザベラ・バードー伊藤鶴吉

 明治11年5月、旅行作家イザベラ・バードは日本の「未踏」地探検記の執筆のために来日した。彼女は、ヘップバーン(James Curtis Hepburn、米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師)など日本でできた知人が、「従者兼通訳」募集に協力してくれた結果、「おおぜいの日本人が『職を求めて』来」たのだが、「ひどい発音で片言だけ話したり、さらには単語をでたらめに継ぎ合わせたり」するのもいた。実用的英会話にはほど遠い連中もいたようだ。この点を詳しく見てみよう。

 *イザベラ・バード、時岡敬子訳『日本紀行』については、異文化理解の観点から追求した平野めぐみ「イザベラ・バードの視点を活用した異文 化理解についての考察─『日本奥地紀行』の分析を通して─」(『目白大学』人文学研究、7号、2011年)は大いに参考になる。

 彼女は、志願者に対して、@「英語はできますか」、A「賃金の希望額は」、B「どなたに雇われたことがありますか」、C「これまでに旅行した所は」、D「東北地方と北海道については何か知っていますか」の五つの質問をした。@、Aまでの質問には、「いつも達者な英語で答えが返ってきて、その度に期待が持てそうな気がし」た。ここまでは、通弁入門書などで練習してきたのであろう。しかし、Bの質問には、「発音がゆがんでいて、当然ながらまるで聞き覚えのない外国人の名前が返って」くる者も出てきたのであった。Cの質問になると、理解できないので、質問を「日本語に訳さなければならず」、質問趣旨が分かると、「返事はたいてい『東海道と中山道を京都と日光まで』と数えきれない旅行客が訪れている場所の名を挙げ」るのであった。Dの質問になると、「ぽかんと怪訝な顔で、返事は『いいえ』」と答えて、「どの応募者の場合もこの段階で手持ちの英語力が尽きてしまうので、ヘップバーン博士が同情して通訳をかってでてくれ」るのであった(イザベラ・バード、時岡敬子訳『日本紀行』上、2008年、78−9頁)。

 このおおぜいいの志願者との面接で、「これならと思える応募者が三名」いて、一人目は、「陽気な若者で、仕立てのいい明るい色のツイードの洋服、折ったカラー、ダイヤモンド(?)のピンを刺したネクタイ、ヨーロッパ式の浅いお辞儀すらできないほど糊の固くきいた白いシャツといういでたちで現れ」た。さらに、「金ぴかの時計鎖にロケットを下げており、真っ白な金巾のポケットチーフの角を胸ポケットから垂らし、手にはステッキとフェルト帽を持ってい」て、「日本人としては第一級の伊達男」であった。彼女は、この風体はかなりの肉体労働でもある地方旅行には向かないと思いつつ、彼が「二番目の質問で行き詰まった」時に、イザベラはこの応募者にお引き取り願う口実が見つかって安堵した(『日本紀行』上、79−80頁)。

 二人目の応募者は、「三五歳の人品卑しからぬ風采の男」であり、「立派な和服を着てい」た。「推薦状の評価も高く、最初に話した英語は期待が持て」たが、「彼の前身はある裕福なイギリス人官吏に仕えていたコック」であり、贅沢上品な旅行の経験しかなく、「知っている英語の単語はごくわずか」であった。だから、今回の旅行には「旦那」も「女の召使」もいないことを知ると、「彼の驚愕ぶり」はひどかった。どちらが断るでもなく、この厳しい旅行に向かない応募者は自然に候補から消えた(『日本紀行』上、80頁)。

 三人目はウィルキンソン(横浜の英国代理領事のWilliam Henry Wilkinson)紹介で、「質素な和服を着て知的で率直そうな顔」をしていたが、英語が不十分だったか、ヘップバーンが助け船を出して「日本語で話しかけた」りした。しかし、彼女は、彼は「ほかの人より英語をよく知ってい」て、「もっと落ち着けばうまくしゃべれる」と判断した。さらに、彼女の英語は「ちゃんとわかった」ので、旅の「主人」(主導権)は彼に握られると懸念しつつも、「好感をもった」ので、彼に決めかけた。質素な服装が厳しい旅行に向いていて、英語力もあったので、「その場で契約しそうにな」った(『日本紀行』上、80頁)。

 しかし、そこに、「ヘプバーン博士の使用人と知り合い」という人物で、背が低いが、「よく均整のとれた頑丈そうな体躯の持ち主」が現われたのである。彼は「これまで会った日本人のなかでは一番愚鈍そうに見えた」。しかし、彼は、「アメリカ公使館にいたこと」、「植物採集家のマリーズ氏(Charles Maries、明治10年来日)と・・東北地方と北海道を旅した」事、「料理は少しできる、英語が書ける」事、「一日25マイル(約40キロ)歩ける」事、「内地旅行のなんたるかを知っている」事などを語った。彼女が推薦状について尋ねると、推薦状は「祖父の家で火事があり、・・焼いてしまった」と答えた。彼女は、「この男が信用できず、気に入」らなかったが、「彼の英語が分かり」、厳しい旅行に耐えうる体力もあり、何よりも「早く旅に出た」かったので、即座に「月12ドル」で雇うことにした(『日本紀行』上、80−81頁)。彼女は6月から9月にかけて東京、日光、新潟県、北海道に至る北日本を旅行し、通弁には相当の強行軍であった。彼は伊藤鶴吉と言い、後に「日本初のガイド組織『開誘社』の設立に参画、国賓の通訳を務めるなど活躍」する人物になる(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)。大正2年1月6日死去時の新聞報道では「通弁の元勲」と評されている。彼は、明治期通弁の中で多少は履歴を辿れる数少ない人物の一人である。

 ここからは、当時の通弁が、時代の最先端の職業をゆくかのような派手な通弁と実直勤勉な地味な通弁を両極にして、多彩な広がりを見せていた。そして、前者の通弁の一部が後述のような醜悪な事件を引き起こしてゆくことになる。

                     A アーサー・H・クロウーヨシ

 明治14年6月にアーサー・H・クロウ(Arthur H. Crow)は横浜に到着した。彼は、「畿内・東海道・東山道、及び北海道」の科学的調査を目的として(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』雄松堂出版、昭和59年、75頁)、通訳を募った。グランド・ホテルで通訳志願者に会うが、「やせた、ずるそうな顔つきの男」で「一日一円」という法外な要求をしたので、彼を断った。クロウは「よい通訳を、それも少しでも正直そうな顔をしているのとなると、確保するのは極めて難しい」としている(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』27頁)。

 結局、クロウは、アメリカ紳士推薦の人物ヨシが、大阪で生まれ、「醜男だが、正直そうで愛想がよ」く、かなりの英会話力、自家用人力車での荷物運搬、コックの能力があるので、「一日一円」で雇うことに決めた(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』28頁、48頁)。月30円は伊藤鶴吉月12円に比べて高いが、自家用人力車、西洋料理などを考慮すれば、妥当であったともいえよう。このヨシは昔は武士であったが(クロウ、岡田章雄ら訳『日本内陸紀行』198頁)、生活の為に自家用人力車を引く肉体労働も厭わなかったのである。因みに、明治30年頃の「人力車の買い値は30円を少し超える程度」で、「立派な自家用の人力車は45円、或いは50円」(チェンバレン、高梨健吉訳『日本事物誌』1、平凡社、昭和44年、332頁)であったから、明治14年ならそれより安く買えたであろう。

                    B アルフレッド・パーソンズーマツバ 

 明治25年、パーソンズ(Alfred William Parsons RA)は、香港から長崎経由で神戸に向かい、「風景画を描きに」来日した。そして、「日本人の案内役(マツバ、松葉か)を雇い入れ、大阪、京都、奈良(吉野の桜、初瀬の牡丹、春日公園の藤)、彦根へ」と進んだ。5月19日に彦根に到着すると、「井伊の別邸楽々亭に宿泊し、さらに躑躅が盛りの天寧寺へ移り、住職家族と日本の普通の家庭の生活を経験し気に入る」。しかし。「旅券手続きのために6月18日神戸に戻り、汽車で大阪、名古屋、横浜へ向か」い、「横浜では戸塚や大船にもスケッチしに行」った。しかし、「暑さにたまりかね、7月9日、宇都宮に移動」し、冷涼な日光に向かうのである(井戸 桂子「明治期、日光を描く」『駒沢女子大学研究紀要』第26号。2019年)。

 この年、「宇都宮からの鉄道が日光まで延伸し、新井ホテルが日光ホテルの隣にオープンした」。しかし、パーソンズは、「宇都宮から案内のマツバと荷物は汽車で送り、自分はクルマを選」び、「人力車に揺られて途中の景色と杉並木を楽し」んだ。彼は。「ピエール・ロチ『秋の日本』の中の「霊山日光」の章を読んでおり、この杉並木の迫力を知ってい」て、マツバと別行動絵をとったのである。マツバはそれを許容したのである。マツバの面接事情、マツバの人柄・語学力、案内状況などは不明だが、彼はパーソンズの要望など理解して、彼を支え協力していたことが窺われる。鉄道整備によって、通弁の肉体労働は以前に比べて緩和されたろうが、しかし、三か月にわたって関西、中部、日光へ旅行する事は、男性でもかなりの強行軍であったろう。

                             C エルヴィン・ベルツーコック、清など

 東京帝大医科大学教授エルヴィン・ベルツは、加賀屋敷無縁坂上の官舎12番に住んでいた(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』審美書院、昭和8年5月、250頁)。「其時分の加賀屋敷」は「全く都離れがしていたもので、夕方になると、地に下りて居る雁や鴨が雛鳥を伴れてゾロゾロと台所のストーブの側に蹲踞(うずくま)って居り」、「随分呑気な時代」で、「宅の縁先は夜になると、全然化物屋敷の様で狐や猫や犬が戯れ遊」んでいた(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』280頁)。ベルツ一家は、都心にあっても自然豊かな環境で生活していた。

 しかし、ベルツは夏休みなどは日本各地を旅行して、現地調査を楽しみつつ、気分転換をはかった。当初は、コックを通弁を兼ねて随行させた。例えば、来日当初の夏(明治9年7月10日―9月11日)、「外科担当のシュウゼ(シュルツ)氏と同導で、コック一人を伴ひ、奥州方面へ旅行」した。「其頃の交通機関としては、人力車か駕籠の外は何もないので、皆徒歩で出掛け」たが、「或る町では宿屋は泊めてくれず、困った挙句コックの骨折りで、村の庄屋の処へ行って種々交渉し、漸く其所の荒物屋の二階の物置で、猿梯子で上り下りする處を貸して貰」った。しかし、「炊事を致す場所が無い、やっとの事で、七輪、土鍋、皿、小鉢までも整へたところが、家の中で火爐(こんろ)を使用してはならぬといふので、裏の土間で調理をするといふ始末、それに鶏卵は売ってはくれないのを、ヤッとの事で二三個 手に入れ」たが、「鳥は買はれず、牛肉はもとより無い」状態だった。そして「北国へ這入る程、悲惨な目に遭」い、「宿屋に泊まっても、蒲団に白い敷布が掛けてなく、持参致したのを掛けでもすると、縁起が悪い」とされ、「括り枕(両端を括った枕)はなし、困り抜」いたようだ(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』253−4頁、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波書店、昭和37年)。

 明治12、3年頃から「日本に参って居た西洋人達の間に、上州伊香保の温泉に行く事が流行し」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』254)た。「明治12、3年にはシウルビ氏とともに伊香保に滞留して居」た時、「コックを連れ矢張山登り」をした。その日は「午後からコック三人連れでグルグル歩き廻り・・何邊も何邊も一つ所に出」て「若い日本人が三人私達の後に付いて」くるので、彼らに「人家に出る道を尋ねてみろ」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』256頁)とし、コックが事実上日本人との通訳の役割をはたしている。

 やがて、ベルツは、「宅の出入の植木屋(清[せい])」を従者兼通弁として、旅行に随行させるようになった。清は、「生立は船乗で、後遊人の仲間に這入り、少しは顔も売れ、諸国を流浪したもの故、旅行する時いろいろの便宜があ」った。まだまだ外国人は、各地で「異人」扱いされて、上記のように不都合な待遇を受けることもあったので、こうした世慣れた人物は役にたったのであろう。だから、厳密にいえば、清は日本語も習得しはじめていたベルツと各地関係者との「交渉人」の如きものであったろう。そして、ベルツは「旅行する時には必ず伴れて歩るき、行く先々でいろいろの昔話を聞くのを楽しみ」にしていた(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』254頁)。

 14年には、伊香保で「今日の千明(ちぎら)の下の處、別荘風な簡易な住居を建て」た。ベルツは、ベア、ネットゥと親しくなり、ここに「三人連で出掛け大満悦」した。「其頃伊香保へ参るには、今の万世橋の所から乗合馬車が出ましたので、買切りで先方まで参る事もあり」、「此馬車は板橋駅を通って行」き、「その途中本郷の赤門前で待合せて、夕方乗込んでも一日一晩ガタガタと揺す振られて渋川に着き、それからその夕方人力車に乗替へてその日の中に先方へ着」いた。船で行けば、「深川の扇橋から内国通運会社の汽船で、堅川筋を抜けて、江戸川筋を遡り、倉我野で下り、それから馬車か車で渋川に参り、此所が立場で、前の通りにして伊香保に行」った。この伊香保別荘は「22年まで所有して」いたが、「子供連れには余り遠方」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』254−5頁)故に、近傍の箱根別荘を購入した。

 これは、「明治7、8年頃の頃、横浜に居た商人が箱根の見晴台」に建てた「一軒の家」であり、「其人が死去した後、明治廿年に宅が自分が引籠って勉強致す為め、その古家を買」ったのであった。ここからの眺望はよく、ベルツはこの別荘を「ミハラシ」と名付け、「度々・・通」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』286頁、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、120頁)った。

                              2 フランス語通弁

                       @ エミール・ギメー近藤徳太郎ら

 通弁の充実 明治9年9月10日、東京から日光に向かう。彼は、雇った通弁のフランス語には疑問をもったが、通弁が「この仕事に慣れてくれることを望」み、「計画中の日本横断の大旅行のため彼を引き留めるかどうか見極めるために、実地で最後の試みをしてみ」るために、「鎌倉では大して役に立たなかった通訳を・・解雇しなかった」(エミール・ギメ、岡村嘉子訳『明治日本散策』角川文庫、平成31年4月( Emile Guimet,Promenades Japonaises,1878)255頁)。

 さらに、「ドロニ―氏の教え子、サラザン氏」(フランスの日本語専門家)にこの「通訳の発言を確かめてもら」おうとした。ただし、サザランは、「パリの国立学校」で学んだ日本語は「実際の日本語には似ていない」から、「足りない所を実践によって補完しよう」として来日したのであった。当時、「長崎の元フランス領事のデュリー(Leon Dury。1822年生まれ。医師。年1861、医師として来日するが、幕府の函館病院中止。1865年長崎領事時代に長崎でフランス語学塾を開設)」が、フランス政府のアフリカ転任命令を拒否し、5年1月―8年1月文部省御雇外国人教師京都府出張として(『太政類典』第二編、明治四年〜明治十年、第八十一巻・外国交際二十四・内地旅行一)、「日本人のためのフランス語学校」(欧学局:中学校外国語学校)の教師となった。それが閉鎖されると、明治8年に東京の開成学校、9年10月東京外国語学校のフランス語教師となった(『公文録』明治九年、第四十六巻、明治九年七月〜十二月、文部省伺、(財)ロマン・ロラン研究所理事宮本ヱイ子「京都ふらんす事始め」http://www2u.biglobe.ne.jp/)。デュリーが身近においていた数人の教え子は「間違いなく日本における最も優秀な通訳たちであった」(ギメ『明治日本散策』255−7頁)。当時の日本にも有能なフランス語通訳はいたのである。

 そのデュリーの有能な弟子の一人が近藤徳太郎(1856−1920年)であった。近藤は京都府「フランス語学校」でフランス語を修了した後に、東京の勧業寮試験場で織物を学んだ。デュリーはギメの要請を受けて、その近藤を急遽通訳陣に加えたのである。だから、彼は厳密な意味での通弁ではなく、もとよりフランス語が堪能である上に織物に関係しているという事(ギメ出身のリヨンは織物工業が盛ん)で登用された臨時通弁であった。リヨンと日本の関係については、明治12年に「日本人留学生用の予備校」の広告でも「我里昴(リヨン)府と日本とは生糸商法に於て大関係を有せり」と指摘している(明治12年6月22日付『読売新聞』)。以後、近藤は通弁ではなく、フランス織物技術導入者として活躍してゆく。つまり、明治10年、近藤徳太郎ら8名は、レオン・デュリーの申し出のもとに京都府留学生として、フランスのリヨンで「織物や染色」を学んだ。15年に帰国後は、「京都織物会社の創立に関わ」ったり、栃木県工業学校で「足利織物を指導し」たり、明治31年に足利工業学校長として『織文要訣』を翻訳して丸善から刊行している(「近藤徳太郎が学んだ「里昂織物学校」とはどこであったか 」『商学研究所報』専修大学、45−3、2013年10月 、国立国会図書館「近代日本とフランス」HP)。

 「日本横断の大旅行」の一行は、「画家一名(フェリックス・レガメ、Feli Regamey)、通訳3名(恐らく従前からの通訳案内業者1名と近藤徳太郎らフランス語堪能通訳2名から構成されたのであろう)、フランス風の料理ができる日本人調理師一名」とエミール・ギメの6人で構成された。さらに、9年9月10日に精養軒ホテル車夫14人と、@「車夫1人1日に月75銭」、A「雨天による休憩1日につき37銭5厘」という「約定書」を取り交わす(ギメ『明治日本散策』257−8頁)。原則「車夫は、車一台に二人がついている」(ギメ『明治日本散策』271頁、402頁)。この約定書と「上野公園を左手に見つつ」出発したとある事から、ギメの東京での宿舎は上野の精養軒であったことがわかる。このように、ギメは、フランス政府から日本支那印度学術研究員を要請され(明治12年6月22日付『読売新聞』、青山利勝「幕末・明治期の日本で活躍したフランス人?ーエミール・エチエン・ギメ」『RIEBニュースレター』神戸大学経済経営研究所、123号、2013年2月)、ギメが日光での仏僧との対話を考慮して新たな通訳二人を加えて通訳陣を強化したり、かつ車夫14人を含む20人の旅行団を結成しているが、これはギメ家(父のジャン・バチスト・ギメ)がリヨンで化学染料(人造顔料かつ漂白剤)発明家として成功して豊かな資金をもっていたからであろう。

 日光旅行 以下、当時の案内業者が外国人旅行に密着した重労働(肉体労働と知的労働の協同)であったことを確認しておこう。

 一日目は幸手の旅籠に宿泊した。夕食後、「料理人のジロウ」は「女中たちが蚊帳を吊っている間じゅう、三味線を弾いて」、「通訳たちはすっかり魅了されている」(ギメ『明治日本散策』263−6頁)。一行は、急用で日光から東京に戻るのに「48時間で72里を走破」するのに遭遇した(ギメ『明治日本散策』271頁)。

 二日目は宇都宮までの契約だったが、車夫は疲労で石橋泊まりにしたいと主張したので、通訳は「車夫たちを責め」た。当時の通訳は荒々しい車夫と駆け引きできなければならない。ギメは通訳を「押しのけ」て車夫と対峙すると、ギメ付きの車夫チュースケ、ケージローは、「十一時間にも及ぶ走行で疲れた車夫たちに対し、私(ギメ)の思いやりが欠けているのでやってられない」と言い切った。そこで、ギメは、通訳に「私は車夫たちに命令をしたくない。彼ら自身が、自分が交わした契約を守りたいか否かよく考えるべきである」と話し、通訳がこれを翻訳すると、車夫は「自尊心を突かれ」て頭を下げ、「たとえ労苦で死にそうになっても、今宵は宇都宮で私たちを休ませる」と明言した(ギメ『明治日本散策』274−6頁)。二軒の旅籠は満員で、午前零時近くに宿を見つけたが、「客で溢れ」、「他の客の場所を詰めて、やっとのことで極めて狭い私たちの部屋が作られた」。相部屋であり、充分な睡眠はとれなかった(ギメ『明治日本散策』282頁)。このように、通弁は夜中まで宿を見つけられないこともあり、相部屋を余儀なくされることもあったのである。

 三日目の午後、「日光東照宮のひとつ手前の村、スズキに到着」した。村長は、「今宵の宿(亀井楼)の店主」であり、「行政官として旅券を求めた」(ギメ『明治日本散策』284−5頁)。

 四日目、ギメは見学を始めたが、輪王寺の「門番が通訳たちと長々と話しをし」た後に、ようやく客間に通された。副住職が、ギメに「仏教に関する豊富な知識を惜しみなく・・教えてくれよう」とした(ギメ『明治日本散策』319−321頁)。五日目、ギメは「ホテルで副住職の訪問を受けた」。副住職は、「ヨーロッパにおける宗教について、・・数多くの質問をし」た後、「もし私がリヨンに仏教のお堂を作りたければ、調度一式を贈ろう」(ギメ『明治日本散策』347頁)と言った。この二日間は、フランス語に堪能な近藤徳太郎らが同席して、専門的な仏教用語を通訳したことになる。ギメがここまで正確な通訳に固執するのは、帰国後に宗教博物館を建設する構想があったからであろう。

 六日目朝、宿舎に副住職が帰京直前のギメを訪れた。ギメが副住職に「なぜ仏教は、様々な民族の宗教とかようにも容易に融合して、そのうちに入り込んだのか」と尋ねると、副住職は、@「善というものは、仏陀の聖なる御心から生じる」から、「仏教は、異なる信仰の優れた所や道義にかなう所、善き所を全て受け入れ」、A「しばしば私たちは、他者のうちに、私共が与える以上の真理を見出」すと答えた。そして、「すべての善は、仏陀の聖心から生じている」とした(ギメ『明治日本散策』347頁)。この最後の仏教対話はかなり高度になり、通弁は最後まで仏教用語の翻訳には相応に苦戦したであろう。副住職が帰ると、ギメ一行は「東京へと出発」した。

 帰路、第一日目は「同じ旅籠」に泊まり、二日目は宇都宮を過ぎ、荒れた利根川を渡り、三日目に越谷を過ぎ東京に辿り着いた(ギメ『明治日本散策』348ー358頁)。

 このエミール・ギメの日光旅行は、日光での副住職との仏教交流などは文化的ではあったが、荒々しい車夫との交渉、相部屋など厳しい旅であった事が確認される。

 なお、ギメは京都でも「各宗の本山を巡拝して各宗の宗義を聞いたうち、浄土宗の法義にはよく分からない疑はしい事があった」ので、浄土宗聖光寺の住職角谷真阿上人に法義の疑問点を質問して、すっかり「疑ひも解け」た。ギメはこれを「大きに喜ん」で、帰国後に「直径一尺五寸ほどの立派な天球儀一箇」を贈呈したりした(明治11年8月27日付『読売新聞』)。ギメは、実業人であったが、宗教に深い関心があたのである。だから、ギメは、「西京六角寺町西へ入る町の仏師井上次兵衛の家にて準提観音の像を買ひ、其ほかいろいろの仏像を買ひ入れ、仏画をも品々かひ入れ」たのであった(明治9年11月10日付『読売新聞』)。

                          A カヴァリヨンー松平

 明治24年、フランス人カヴァリヨン(E.Cavaglion)は254日世界一周の途上で日本に立ち寄り、4月29日に神戸に着き、大阪、奈良、京都、大津、名古屋、横浜、宮ノ下、熱海、東京、東北を旅行することになる。彼は、神戸で「イギリス仕立ての背広を着て、頭には黒いシルクハットを被っ」た松平という男を「案内」として雇った。カヴァリヨンは、当時の日本では、「神戸と横浜を除いて、すべての都市がヨーロッパ人に開かれていない」ので、「案内人を連れないで旅行するのは難しい」とする。

 カヴァリヨンは松平に旅行計画を示したが、「彼は手厳しく無理ですと文句をつけ」て、翌日、29日間の周遊旅行計画書を提示した。高報酬を狙って、日数の多い計画書にしたのであろう。さらに、「知り合いの骨董品屋で出来るだけ多く散財させ」ようとした(E.カヴァリヨン「明治ジャポン 1891 文明開化の日本」[C.モンブラン他、森本英夫訳『モンブランの日本見聞記』新人物往来社、昭和62年、129−130頁])。後で、松平は、骨董屋から一定の紹介手数料を得るのであろう。

 旅券は、@「行程に当たる総ての都市や町村」を「細かく記載」し、A宿屋に着くと、主人に提出し、「主人は・・警察に持ってゆく」(『モンブランの日本見聞記』130頁)。カヴァリヨンは、松平は「堅い男」で「頭が良い」が、「時折わけがわからなくな」り、こうした「案内人風情と意志の交換をしなければならないことほど退屈なことはない」(『モンブランの日本見聞記』138頁)とするが、松平にすれば、相手の「困惑」「不快」などを感じつつ、決められた旅行日程をこなすのであるから、心労は相当なものであったろう。

 結局、二週間ぐらい旅行して横浜に着いた後、カヴァリオンは松平との不調和は耐え難いものと感じた。カヴァリオンは「礼儀を失することなく松平をお役御免にする方法」を探り出した。彼はホテルで転倒したので、それを口実に旅行ができなくなった事にして、松平の方から辞意を表明するように画策した。松平も困惑のあまりその策略に乗ってしまい、「東京の帝国ホテルから電報が来て、人数の多い家族が自分を求めており、それが良い収入になるから、今日暇を欲しい」と申し出た。松平としては、カヴァリオンからもっと手当てを増やすので、そういう事をいわずに今まで通り案内人にとどまってくれと言って欲しかったのであろう。しかし、カヴァリオンは、「心の中での喜びをひた隠して、彼の求めに応じた」のであった。松平は、夕方戻ってくると、「朝方あれほど熱心に自分を望んでいた家族の気が変わってしまい、自分はいつでも貴方にお仕え出来る」と言ったが、カヴァリオンは「遅すぎたよ」と言い放った。彼はひそかに「ジロンド河周辺のなまりで喋るとても素朴な男」、「性格の良い青年」で「日本語が話せた」アルマンという人物を確保していたのである(『モンブランの日本見聞記』162−3頁)。

 カヴァリヨンのとの二週間余の周遊旅行は、日本人通弁には、肉体的疲労のみならず、心労をともなう旅行であった。

                    3 「特殊日本型」通訳案内業者ー女性通弁問題

 以上の旅行通弁は、英語力のみならず、体力、料理力なども要求され、従って肉体的・精神的疲労に耐えうる男だけがなしうるものであり、条約改正前という特定時期に存在した特殊日本型旅行通弁といってよい。鉄道網が整備され、通弁の肉体労働度は緩和されても、連泊を伴う地方旅行ガイドは、依然として女性には担え難い通訳案内業務であったであろう。もしこの「男の仕事」の側面が鉄道が整備され条約改正された後も一定度残ったとすれば、女性がガイドを志望したら、どうなったであろうか。それを彷彿とさせることが、明治43年に実際におきていた。これを瞥見してみよう。

 鉄道網が整備され、条約も改正されていた、明治43年には、東京、横浜で女性通弁の志願者、合格者が現われたのである。

 まず、東京から見ると、43年5月27日付『読売新聞』の「婦人の案内者」によると、警視庁の外人案内試験応募者12人中に婦人が2名いた。「26日の英文和訳、日本歴史及地理の4課目の予備試験を済ませて、今は会話の一課を残すのみ」となった。

 この女性志願者のうち、中川つる枝(23)は、「京都同志社の高等科」を卒業し小石川小日向の実兄中川実氏方で「外国婦人に就き専心語学を修め」ていた。高橋テリ子(37)は、「女子学院出身にてかつて千葉県(某)・・に嫁したるが」、事情有って離婚し「今は父なる小石川大塚」の嘉瀬良助方にいた。通弁を志願しただけで、氏名住所のみならず、離婚歴まで記事にするとは、現在では考えられない事である。彼女らが合格したか否かは不明だが、合格していても、案内業者の道は次に見るような事情でかなり険しかったであろう。

 即ち、横浜では女性が三人合格して、実際に開業し、経営上の不安・困難に直面することになるのである。明治43年7月1日付『朝日新聞』にある「女案内業(ガイド)の将来」によると、横浜では、「先頃の試験に首尾よく及第して日本に於ける女案内業者(ガイド)の先鞭を付けた岩淵はつえ(22)、中川つる枝(25)、吉田きよみ(23)の三名は数日前、横浜市太田町四の七五に共同で事務所を開き、いよいよ世間に打って出た」のであった。もし東京でも女性志願者が合格していれば、彼女も女性案内業者の先駆であろうが、合否は不明である。

 従って、この横浜女性三人が、日本で女性ガイドを志した最初の女性とみてよいであろう。しかし、「三人共に其道には実地経験のない心細さ、如何なる方針を取って発展すべきかにつき差当り頭を悩まして居るらしく、一昨日も日本観光株式会社等を訪ねて種々助言を求め」たのであった。既に条約改正によって、上記でみたような拘束的国内旅行ではなくなったが、まだ女性ガイドは前例がないだけに、彼女らが困難や不安を覚えたのは当然であったろう。

 朝日新聞の記者は、日本観光株式会社の社員に女案内業者観を聞くと、「結局成功は困難だらう」と言った。その理由として、「案内業は男でさへ骨が折れる、成程一寸見には車や汽車に乗って客人と一緒に楽の出来る呑気な商売の様に見えるが、一面従僕の仕事も為なければならず、停車場では赤帽の真似も行らされる。中には徒歩で山坂を超すといふ客人もある。斯いふものの世界を万端受持つといふことは迚も女では覚束ない」と、案内業者には条約改正後も依然としてきつい肉体労働が残っているとするのである。

 さらに、この社員は、「夫では婦人の客ばかりに随く事としたらとも思はうが、其注文に合ふ様なのは容易にあるものではなく、縦令有ったにしても、徒歩の際抔、早脚の西洋婦人に遅れずにお伴する事は日本の女子には至難な仕事ではあるまいか。雖然も男客と比較すれば、未だ婦人客が優(まし)だ」ともする。問題は「男客と旅行でも為なければならん場合」だとする。彼は、「夫こそ危険千万な話といふもの」だとし、「女子の職業としてのガイドが若し将来に発展の道があるとすれば、全然男とは別の方法を取らねば駄目だ」とする。

 彼は、「吾々の考へでは、女には所謂アマの仕事が最も適当」であり、「之ならば前途に多少の希望はあると思ふ」とする。この「アマの仕事」とは、「旅行中奥さんなり令嬢なりに高等下女として随行し、着物の着換へ、入浴の世話を始め、時には男には為せられぬ仕事の総てに手助け」する事であり、「食事の給仕、子供の守なども行(や)る」ことだとする。女性や子供向けのメイドの存在だというのである。そして、彼は、「此方面に働くには語学以外、礼法礼式の一般は究めて置く必要は無論であるが、その素養さへ出来て居」る事も必要であり、これならば「女子の職業として却って有望だらうと思ふ」(明治43年7月1日『朝日新聞』「女案内業(ガイド)の将来」)とするのである。今から見れば、問題も少なくない見解であるが、これが当時の女性案内業者観であったのであろう。そこには、男性案内業者が、ただでさえ競争が激しい通弁市場に、これ以上通弁が増加して競争激化して、男性通弁市場にダメージを与えないように防衛しようとした意図も否めないであろう。

 大正10年10月5日付『朝日新聞』は、通弁試験の「出願者中に弘前の夫人」がいると報道しているように、この時点でも女性通弁は珍しかったようだ。つまり、「警視庁外事課では来る二十日外人案内業者(ガイド)の試験を行ふが、科目は日本の地理、歴史、外国語(英語)の予備試験並に本試験で、出願は来る十五日迄で既に四十五名の出願者がある」と報じた後、、池田外事課長は、「一般案内業者の常識欠乏の傾向があるので、今年は専ら卑近な問題を課す。仮へば、東京、京都付近のホテル所在地や汽車賃、汽船賃、宿屋、ホテル等の設備並に其宿泊料金、自動車代等」であり、今年の出願者中には青森県弘前生れ鳴海けい(29)がいるとする。彼女は「郷里遺愛女学校(現在は弘前学院聖愛中学高等学校)卒業後、日本メソヂスト教会宣教師となり、目下上京して英語の個人教授をして居」たとするのである。 

 なお、現在の通訳案内士は、男女の相違なく、「観光地を案内するだけでなく、旅行スケジュールの管理、宿泊先の確認、荷物の管理、買い物のアドバイスといった業務も、仕事のかなりの割合を占めてい」(日本観光通訳協会HP)るとしている。

                                4 外国人通弁

 明治7年5月31日「外国人内地旅行允準条例」第11「従者」、第12「通弁」は日本人に限定するとはしていなかったから、日本語が理解できる外国人が通弁になることはできた。

 元お雇い外国人通弁 御雇い外国人が日本語にも通暁してくると、中には政府との雇用関係終了後に日本にとどまって、通弁になろうとする者もいた。つまり、明治13年12月、「横浜裁判所の御雇ひ米国人アトロス・ルッセル氏は・・約定の満期にてお雇ひを解かれたが、同氏は兼て日本へ帰化の心があって、本国政府へ願ひ済みのうへ、今度我国へ入籍いたしたひと、神奈川県へ出願され」た。14年1月4、5日頃に、この出願が「聞届けになりしゆえ、是までの住居なる戸部町四丁目百三十番地へ内山蘆雪と改名して籍を入れ」、15日より「弁天通り四丁目の各国翻訳局」を開設し、その社長となり、「翻訳通弁その外、何事でも内外に係る事を引受けて取扱かはれる」(明治14年1月27日付『読売新聞』)とした。旅行案内業の求めがあれば、それも引受けるということであろう。ただし、上述の通り、カヴァリオンが「日本語が話せた」青年アルマンを案内業に雇ったのだが、中高年の外国人には日本の通弁(通訳案内業)は肉体的にかなり過酷であったであろう。

 翌15年7月13日付『いろは新聞』によると、ルッセルは、横浜守屋正造出版の柳亭種彦著『田舎源氏』(柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』を脚色した歌舞伎脚本)を珍重し、今度英文に翻訳するとしている。やはり、強健な肉体を要する旅行案内業というより日本文学の翻訳などを重視していたようだ。

 また、著名な元お雇い外国人らがボランティアで案内業務をする場合もあった。例えば、明治19年7には月、アメリカで「コレラが襲ってきた」ので、アメリカの歴史学者ヘンリー・アダムズ、画家ジョン・ラファージは避難をかねて、日光の「F(フェノロサ、東京大学教員)の家(日光山内の輪王寺支院禅智院の賃貸別荘)の近くで一月過ごす」ために、来日した。医者ウィリアム・ビゲロウ(William Sturgis Bigelow、米国富豪、日本美術院賛助会員)が彼らを日光までの旅行を案内した。さらに、フェノロサ、ビゲロウ、岡倉天心(三人は18年に仏教に帰依)がアダムズ、ラファージを日光までの旅行を案内した。さらに、ビゲロウのみならずフェノロサ、岡倉天心(三人は18年に仏教に帰依)も加わって、彼らを日光以外の日本旅行にも案内した(飯野達央『聖地日光へーアーネスト・サトウの旅』随想社、2016年、180−1頁)。この場合、相当の荷物があって、彼らが肉体労働に耐えられない場合、「外国人内地旅行允準条例」第11にある「従者」を雇うこともできた。

 宣教師通弁 また、宣教師の中には日本語に通暁して、ボランティアで通訳をする場合もあった。例えば、「長く奥州に伝道をしておったゲーンスとかいふ宣教師」は、「日本語を能く知って居る上にズーズー弁が極く上手で、何時でも東京人と奥州人との間に立って通弁をする」ようになった。「それを或人々が聞て、日本人と日本人が話をするのに西洋人に通弁をして貰うなどは気が利かない」と批判して、「自分で説教をして見た」が、その標準日本語が「聴衆にはとても分らな」かった。そこで、「今度は西洋人と一緒に出懸けて自分の説教を件の西洋人に通弁して貰ふと、聴衆は始めて理解が言った」などいうこともあったりした(明治34年10月29日付読売新聞「西洋人の通弁」)。東北弁に通暁した西洋人が、東北人に東北弁で西洋人の通訳したのである。

 このように、日本に長く在住して、日本語も理解できる外国人が、中には、通弁になったり、知人外国人の案内をする場合もあったのある。

                         三 案内業者側の対応

                         @ 案内業者の弊害

 以下では、女性が語学力が得意だからといって飛び込もうとした案内業者の世界では、明治の初めから如何なる不正料金、或いはその温床があったのかを見ておこう。

 宿泊業者からの手数料 明治初年には、金谷真一が、@「明治初年よりガイドは渡来外国人の内地旅行上重要なる役目を果たしたり。渡来外人は是非共之等ガイドに依って指導せらるる外無」いのみならず、A「旅舎としても言葉も通ぜず、ガイドに食物の世話、ベッド其他万端を任せ、彼等はホテルの支配人以上のサービスを外人旅行者に与へた」ので、「客から受ける支払等に至るまで世話になる必要」があったので、B「ホテルでは宿泊料の一割位を謝礼の意味で提供しておった」(金谷真一談[運輸省鉄道総局業務局観光課編『日本ホテル略史』運輸省観光課、1946年、5頁])と述べているように、案内業者は顧客外国人のみならず、宿泊先からも「宿泊料の一割」を受け取っていた。この謝礼は、宿泊業者が今後の継続的利用を願っての営業費ではあったが、規定がないだけに「不正」要求の温床になりかねない。

 明治35年には「外人案内業者の横暴」が目に余るようになって、「帝国ホテル、富士屋ホテル、金谷ホテル、都ホテル、大阪ホテルの五大ホテル同盟会組織」されて、ついにこうした「歩合全廃を以て対抗」(『日本ホテル略史』55頁)しようとした。

 外国人からの通訳報酬以外の徴収金 しかも、外国人からは事前契約金以外にも色々口実を作って受け取っていたようだ。つまり、明治39年5月5日の『読売新聞』によると、「案内業者の品性頗る下劣にして、外人の土地不案内なるに乗じ、其間に不正手段を弄して、私利を図る者あるは往々にして耳にする所なり」という事態が見られたのである。

 これは、大正期にも解決しなかった。大正5年9月5日外客誘致策について経済調査会貿易連合部会が首相官邸(首相大隈伯)で開催され、漫遊客誘致に就いての決議の第5項で「ガイド(案内業者)は内務省令の取締と営業の自省心と相まって弊風矩正し、一方取締を厳にし彼等の自由向上の精神を涵養せしむるに努むべきこと」(『日本ホテル略史』119頁)とされた。大正8年3月4日付『読売新聞』は、外国人の「邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ不当な利得を貪る通弁」が依然としているので、10日の通弁試験では警視庁は「受験者の素行、履歴等を厳重に調査し、又合格者に対しては特に稠密な監督を行ふ筈である」としている。大正8年3月15日付『読売新聞』によれば、衆議院で「外客招致及待遇に関する建議案』が審議され、中川鉄道院参事は、「ガイドの取締りは将来一層厳重になす考へなる旨の答弁」をした。

 昭和になっても、案内業者の取締りは課題となっていた。つまり、昭和5年11月26日に、「日本ホテル協会理事長日浅寛より、(奉天で開催された)第21回秋季総会の決議に基づき国際観光局長新井堯爾宛ホテル事業改善に関する左記要領の請願」をし、「一ガイド取締及素質向上に関する件ー「各府県区々」の取締りを統一する事」とされている(『日本ホテル略史』179頁)。

 以上のように、案内業者に不正料金問題が生じるのは、@罰則が緩い事(営業停止処分にとどまり、案内業免許取消、罰金賦課などという事はなかった)、A案内業者の収入不安定が不正料金温床となっていた事などが考えられる。例えば、明治40年3月13日付『読売新聞』の「博覧会と案内業者の取締」によれば、「近来博覧会開設を見込み、潜り案内業者が続々現はれ、不正の行為を働くより、警視庁にては過般来より是等案内業者の内偵に着手しつつありて、厳重に処分を為すことに決したり。その取締に関する第一着として京橋区山下町16番地案内業石神国太郎(40)は昨日案内業者取締規則第十条に依り、警視庁より向う三ヶ月間の業務を停止せらる」とある。同日付『朝日新聞』も「案内業者の業務停止」としてこれを報道している。だから、当局もあの手この手で対策を打つのだが、三か月後には案内業務を再開できるから、あまり不正防止の効果はないということになろう。

 次には、こうした緩い当局の案内業者取締をさらに瞥見してみよう。

                         A 通弁取締規則

 明治初年には通弁(通訳案内業者)の取締機関はなかったが、明治20年代頃からその取締が問題となった。

 通弁証 喜賓会は、ガイド要望で、「最も適当なる資格を具備すると認めたる者に監督証及徽章を交付」したが、貴賓会は「国際観光を包括的に推進しようという姿勢が欠如し、その活動は曖昧」だった(竜門社編『貴賓会解散報告書』)。

  明治26年3月設立「喜賓会」は綱領の第二項で「善良なる案内業者を監督奨励すること」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])とした。そこで、貴賓会は、「横浜・神戸・長崎・東京及京都に於て、通弁案内業を営める開誘社・東洋通弁協会員及其他より、本会の監督を希望する者百名以上ありたるを以て、本会は本人の出頭を求め、学力其他に就き相当の調査をなし、最も適当なる資格を具備すると認めたる者に、監督証及徽章を交附」する事とした(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 しかし喜賓会には取締の法律的権限があるわけではなく、通弁不正の取締りまでは実施できなかった。ここに、明治30年代に内務省が案内業者取締に乗り出すことになった。即ち、明治36年3月第5回内国勧業博覧会で多くの外国人来朝が予想され、全国の通弁能力の向上をはかって、36年2月4日付「案内業者取締規則制定標準」を各府県に通牒し、第3条で「案内業者ハ当廰ニ於テ外國語ノ試験ヲ為シタル上之ヲ免許ス但シ中學校又ハ同等以上學校卒業ノ者ハ試験ヲ為サスシテ免許スルコトアルヘシ」とした。この制定者は府県だったと思われるが、明治40年7月27日には改めて内務省令第21号」として「案内業者取締規則」を制定布達した。ここでは、@ガイドになるには「試験を受け、免許を取得すること」、A「免許証の携帯を義務」づけ、「雛型を示して徽章を左胸に着ける」とした(上田卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」 『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)。これは、無免許業者の対策であって、免許業者の取締りまで扱っていなかった。

 案内者取締規則 明治33年3月に、横浜では、「案内業者の取締規則」が打ち出された。つまり、「横浜市に存在する案内業者即ちガイドなるものは是迄別に何等取締法の設けなきより、往々不案内の外人を誘致し、不都合の行為を行ふものあるより、神奈川県知事は昨日県令第十九号を以て其取締規則を発布せり。該規則によれば、案内業者は此際組合を組織せしめ、新たに営業を為さんとするものは、組合取締の連署を以て出願せしむる事となすものなれど、県庁は重軽罪の処刑を受けし者、未成年者、酔狂者又は暴行の癖ある者、精神病又は人の嫌忌する疾病あsるもの、素行不良と認むる者には営業免許証を下付せざる規定にて、該取締規則に抵触する者は五十銭以上一円九十五銭以下の科料に処し、一日以上十日以内の拘留に処するの罰則を設け、5月1日より施行する」、これは「案内業者の為めには少なからぬ頭痛なるべし」とする(33年3月28日付『朝日新聞』)。

 こうした取締規則は横浜以外に作られたが、各地まちまちだったので、その統一が推進された。即ち、明治36年1月31日、内務省は、「従来東京、大阪、京都の三府を始め北海道、兵庫、長崎、神奈川、新潟、栃木、群馬、長野県等の在留し或は避暑、避寒其他人情風俗古蹟等取調の為め幾多の外国人が常に入込む所の各地方庁に於ては案内者取締規則を設け、夫々施行し居れるも、其規則たるや区々に渉り、又頗る不完全の点あるのみならず、種々の弊害 案内者間に行はれ不都合不少」と各地多様なは案内者取締規則を指摘し、又「来る三月よりは愈々(第五回)内国勧業博覧会も大阪市に開設せられ、随て外国人の我文物視察旁々来朝するもの多きを加ふる」として、「此際各地方庁をして之が取締規則を一定せしめん」として「同取締標準を発布すること」に決した。そして、内務省は、「過般来種々調査中の処、既に大体調査結了せし趣に付、不日発表する」(36年2月1日付『読売新聞』「外国人案内者取締標準」)ことになった。

 案内者取締規則標準 36年2月4日、内務省は、「来る三月より大阪市に於て内国勧業博覧会開催せられ、随って多数の外国人も渡来するに付、其筋に於ては、(不当な案内料をとらぬ様に)案内業者取締の必要を認め、案内者取締規則標準なる者を定め、今回各地方庁に通牒」した。その通牒の大要は、@「外国人案内業者たらんとする者は所轄警察署を訪問し地方庁より免許を得ること」、A「地方庁に於ては中学校卒業の程度に於て外国語の試験を為す事」、B外国人から受ける報酬の正当化をはかるべく「該案内者より受くべき費用其他の報酬は認可を受くること、又認可以外の報酬は勿論其他の費用をば請求することを得ざること」、C「従来三ヵ年以上同業に従事し、現に営業中の者は地方庁の認定に依り、正規の試験を為さず、免許することあること」というものである。これを受けて、各地方庁は「同標準に基づき、近日中に夫々庁令を発布し、之が取締を為す筈」(36年2月5日付『読売新聞』「外国人案内業者取締標準」)とされた。ここには、免許制、報酬届出などがあるにとどまり、まだ厳しい罰則規定はない。

 明治40年6月30日、「従来全国を通じて統一せる外国人案内業者取締規則なき為、其取締方法区々に亘り、又現在二三地方庁に於て施行せる処の同規則も不備の点不少に付、内務省にては今回同取締規則を制定し、外国人の便宜を図り、又彼等案内業者の悪弊を除去して、観光外国人に悪感を懐かしめざる様取締を為す方針にて、過般来種々取調中」(40年6月30日付『読売新聞』「外国人案内業者取締規則)であった。

 免許下付 さらに、当局は、各地多様な外国人案内業者取締規則の統一を問題とし、免許の下付を検討してゆく。

 40年3月17日付『読売新聞』の「案内業者の免状下付」によると、「警視庁にては先頃来より案内業者の試験を執行し居たるが、昨日十九名に対し免状の下付し、今回の及第者は高等商業、外国語学校の学生のみなり」であった。

 40年7月27日に、「内務省令第21号を以て案内業者取締規則七ケ条を発布した」(40年7月28日付『読売新聞』)。改めて案内業者は試験に合格して免許をうけることを打ち出したのである。この規則では、案内業者の免許を与える主体は、当分の間、警視総監、北海道庁長官、京都府・神奈川県・兵庫県・長崎県各知事とされた。これは、9月1日より施行された。第一条で、「通訳に依り諸般の案内を業と為さんとする者は願書に履歴書及写真二葉を添付し地方長官に願出、免許を受くべし」、以下、外国語、本邦地理、本邦歴史の試験をうけた上で、免許を下付するとする(『日本ホテル略史』82−3頁)。

 実際、40年9月始めに、「内務当局にては今回案内業者に対し免許証を交付し、必ず之を携帯し、求めにより、随時之を示さしむる事とし、一般来遊外客をして予め之を知悉せしむるの便に供する為め、欧米各国に対し頃日其雛形を送付し」(40年9月5日付『朝日新聞』)ている。

 こうして、各地の取締りの統一、免許付与の統一がなされたが、これは業務を円滑化しても、不正は防げないのである。

 外国人案内業者試験 内務省ー警察が外国人案内業者試験を行ない、試験を通して規制しようとする。

 東京では、38年3月23日午前9時、警視庁で「外国人案内業者出願人九名に対し試験を執行」(38年3月24日付『読売新聞』)した。

 39年には4月23日が試験日となる。39年4月10日付『読売新聞』は、「警視庁に於ては来る二十日前後に於て外国人案内業者の試験を行ふはずなれば、志願者は此際至急所轄警察署に出願すべし」と予告した。39年4月20日付『読売新聞』は、「警視庁にては来二十三日午前九時より外国人案内業者試験を執行する由、志願者の願書受付期限日は今二十日限り」と、最終予告をした。この試験の受験者・合格者は、「過日警視庁に於て挙行したる外人案内者試験は受験者37名の中及第者21名」(39年7月3日付『読売新聞』)であった。

 39年12月には警視庁でも通弁巡査を確保しはじめる。明治39年12月18日付『朝日新聞』「通弁の試験」によると、「警視庁に於ては過般来 通弁の資格及び試験に重きを置ける結果、本年度に於ける試験には稍其の希望に近き資格ある志願者を得るに至れり。昨今観光外人の増加とともに、先月来相当の資格を有するものとして試験を願出るもの多く、其数已に五十余名に達したるより、近日試験を行ふ筈なり」とし、「又各署に於ける通弁巡査の本年最終の試験も昨日より同庁内に挙行」した。

 41年10月6日には、警視庁第二部で出願者30余名の試験を実施した(41年10月3日付『朝日新聞』)。

 通弁不正問題の残存 しかし、不正は案内業者の業務執行過程で生じているのであって、試験自体には不正はない。警察が案内業者の試験を行っても、能力向上ははかれても、不正防止にはならない。

 だから、大正8年になっても、当時日本在住英米人1200人、独墺ら400人がいたが、「その邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ、不当な利得を貪る通弁がある」。そこで、警視庁は、大正8年3月10日の通弁試験では、「通弁試験の志願者激増」し、外国人の「邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ不当な利得を貪る通弁」も登場しているとして、「受験者の素行、履歴等を厳重に調査し、又合格者に対しては特に稠密な監督を行ふ筈である」としている。

 さらに、長谷外事課長は、「通弁免許状の所持者は、昨年迄は約83名に達しているが、大戦も終ったことでもあるから、之から先、貿易商、宣教師、其の他観光客が東洋に殺到し、通弁の需要は益々多くなって来やうと思ふ。殊に米国などは戦争の為に4、5年結婚を延期していちゃものが、金は儲かる、命は助かるで、新婚旅行に世界漫遊を企てる者も少くあるまい」と外客増加傾向に触れる。しかし、彼は、「聞く所によると、邦人通弁中には、平均一日三円乃至十円の案内料を超えて法外な賃金を貪ったり、商人と結託して十円のものを二十円と偽って残金を着服し、又言葉の分からぬのを奇貨として十円の品物を十五円と告げて五円を横領する。甚だしいのは、ホテルに行くと高いからと、巧みに自分の家に引き込み法外な宿料を貪った上、雑多な品物を押し売りしたものさへある。これは単に通弁の品位を墜すのみでなく、外国の民情、風俗を誤らせ、国威にも関する事だから、今後一層監督を厳重にするは勿論、かりそめにも不埒の行為のあったものは直ちに免状を取り上げる方針である」と、監督強化のみならず、免許取り上げを示唆したのである。なお「本年から従来英語のみの試験課目を露、仏、独、英の四ヶ国に拡めた為め昨三日迄の志願者は50名といふ記録破りの多数に上った」(大正8年3月4日付『読売新聞』「悪通弁を厳重に取締る」)と、通弁受験者の著増を指摘した。

 以上、内務省ー警察は、志願者の素行、履歴の調査、合格者の監督を打ち出すのみなら、ついに免許取り上げを打ち出し、案内業者の不正防止を実現しようとしている。これまで、案内者取締規則標準、統一的取締規則、外国人案内業者試験などを通して、案内業者の不正を防止しようとしてきたが、有効施策を打ち出すことはできず、大正8年になってようやく免許取り上げを打ち出そうとしたのである。

                        B 通弁側の対応 

 こうした内務省の当初の緩い取締りは、通訳案内業者の収入が不安定であったということにもよろう。春の花の季節、夏の避暑の時期など外客の訪日時期には波が大き久収入が不安定になるのに、志願者、免許者は増加し、少ない顧客を多数の案内業者が取り合うという場合もあったであろう。不正だと分かっていても、生活のために不当な歩合、謝礼などを要求せざるを得ないという切実な事情もあったのであろう。

 だから、通弁(通訳案内業者=ガイド)は、収入不安定、身分不安定などに対処するために、早くから同業団体を組織していたのである。しかし、「派手な通弁」の中には、「誘惑」に負けて、身を持ち崩す者もでてくる。

                      a 開誘社(明治12年)     

 明治12年伊藤鶴吉、吉田徹三、堀屋次郎、福山久太郎等ガイドが発起人となって日本最初のガイド組合として開誘社が設立される。チェンバレンは、開誘社は「横浜と神戸に本社、東京と京都に支社」があり、「英語を理解するガイドはここで得られる」とする(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年、34頁)。

 明治24年の該社通弁規定料金は、@1人の旅行者には1日1ドル、2人を越えると25セントが加算され、A「ガイドの旅行費用は雇い主がもち」、B「宿泊代として一日一ドルを別立てで支払う」というものだった(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年34頁)。明治35年10月29日付『京都日出新聞』の「外人と京都」(十七)によれば、「唯正直に働いてゐれば余り案内者は収益のないもの、一ヶ年中百五十日間来傭聘せらるゝれば上の部、手数料を合算して一ヶ月五十円以上あれば結構だ」としている。上田氏は、これは、「月に15日働いて38円程度、残り12円は手数料による」とされる(上田 卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)。

 この通弁月収50円、手数料を除けば38円は、明治前期の東京府権中属(月給30円)、明治32年の横浜海港検疫所検疫医の月俸35円、明治30年頃の大都会の車夫の月収30円(チェンバレン、高梨健吉訳『日本事物誌』1、平凡社、昭和44年、332頁など)より多少は良いというレベルである。しかも、これは、季節によって変動を余儀なくされるのであるから、熟練度、人気度の低い通弁の生活は楽ではなかったであろう。
      
 しかし、外客要望の満足面で熟練度、人気度の高い通弁の中には蓄財する者もいたようだ。例えば、明治21年には、「横浜のガイド田島幸吉」が資金を蓄積して、日光の飯村多三郎など数名と共同出資し日光に三角ホテルの建築を試みている(飯野達央『聖地日光へーアーネスト・サトウの旅』随想社、2016年、242頁)。また、明治12年に、長崎通弁の井上万吉は、也阿弥ホテルを買収するに足る資金を蓄積している(本論参照)。24年には、この井上万吉、喜太郎兄弟は、開誘社の一部社員と常盤ホテルの買収を巡って争っている。ただし、後述の諸事件などを考慮すると、こうして通弁の蓄積資金が、倫理的に問題はなかったかどうかは不明である。

                      b 東洋通弁協会(明治30年代)

 条約改正で、内地雑居が廃止され、外国人旅行が自由となれば、通弁の必要が高まろうが、@従来の「特殊」通弁はなくなり、A案内業者が増加し、競走が激化しかねないのである。狭いパイをめぐって、まずは通弁の新旧対立となって現れた。

 明治35年10月29日付『京都日出新聞』の「外人と京都」(十七)によれば、開誘社の「老朽」が、低廉に案内業務を引受けかねない「若手」を追い出し、「若手」はこれに抵抗して神戸に東洋通弁協会を設立したようだ。つまり、開誘社は、「創立年久し」い歴史があり、「通辯協會は此社から分離した」「脱走組」で「碌なものはゐません」と非難すれば、神戸の東洋通弁協会は「開誘社の奴等は老朽ばかりで、僕等新智識を多少持ってゐるものが不平を鳴らして名誉の分離をした」(前掲上田 卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」)と息巻いたのである。

                       c 帝国通弁協会

 帝国通弁協会 明治39年になると、通弁生活の安定をめぐって、通弁団体の軋轢は深刻化した。

 39年2月頃、未だに「外人の土地不案内なるに乗じて世の所謂案内業者なる者の間に諸種の弊害続出せる由」が見られる事から、「此度此種の弊を打破して、誠実に敏速に来遊外人の需要に応ぜんが為め」として、帝国ホテルに専属する石神、越野、幸松、古家、鈴木、戸村其外17名(ここに小坂も含まれる)の案内業者が「同ホテルを中心」として帝国通弁協会を組織した(39年2月26日付『朝日新聞』)。ここに、「帝国ホテルの通弁協会にては、ホテル専属の通弁6名と開誘社の通弁5名にて、事務を取」ってゆく事になった(39年7月12日付『読売新聞』「帝国ホテルの通弁の紛擾」)。

 こうして、帝国ホテル内の「帝国通弁協会と云ふ通弁の団体」と「同じく横浜に開誘社、神戸に東洋通弁協会等」があって、帝国ホテルの通弁11名の人員を減じて「収入を多くせん」と計画し(39年7月12日付『読売新聞』)、39年6月に「開誘社、帝国通弁協会、東洋通弁協会の二協会一社の合同説」がおき(39年7月12日付『朝日新聞』)、「結局開誘社より来り居る前記5名の通弁を放逐の事に決」したのであった。つまり、「帝国専属として在来6名の通弁ありしが、此者等は収入上恐慌を生じ、開誘社側の排斥運動に着手した」のであった。だが、これを「開誘社側にて聞込み小股をすくはれぬうちと、五名の者は逸早く帝国ホテルに駆け込」んだ(39年7月12日付『朝日新聞』)。この結果、「大に紛擾を起し、ホテル支配人マネージャーに仲裁方を依頼」した所、「マネージャーは改めて右11名の中より通弁協会と開誘社の通弁と双方合して6名を採用し、他は一時解雇する事と定め」た(39年7月12日付『読売新聞』)。つまり、支配人は、「此程帝開両派を問はず、小坂外五名(ここに戸村も含まれる)をホテル専属とし、越館外四名は終に排斥さるるに至」ったのだが、「排斥されたる連中は大いに怒り、茲に紛議の再燃を見た」(39年7月12日付『朝日新聞』)のであった。

 しかし、通弁協会の監督石神国太郎らは「現今外人の渡来やうやく繁く、尚ほ来年度は博覧会も開設さるるに際し、帝国ホテル通弁中に此事あるは外人に対し聞えも悪きこと」とて、「前途について大いに憂慮し」たが、今後は「総ての通弁中には往々不良の徒も少なからざるより、今後入会のものに対しては、十分調査を行ひ、益改善を図る筈なり」(39年7月27日付『朝日新聞』「帝国ホテル 通弁粉紜後聞」)という方向で収束していったかに見えた。

 戸村と小坂の軋轢 しかし、「不良の徒」は今後の入会者にではなく、帝国ホテルの残留通弁(戸村と小坂)の中にいたのである。収入安定を約束されたかの帝国ホテル内部の案内業者の軋轢は、彼らの欲望まみれの不正問題に絡んで、翌40年に凶悪事件を生み出すことになる。

 小坂政吉(30)は、有楽町松本楼(現在も日比谷公園に存在する洋風レストラン)主小坂梅吉の弟であり、泰明学校、東京中学、「築地のミス・サンマーの正鵠学館」(明治17年頃サマーズ夫妻が創立[手塚龍馬「東京府史料にみるサンマ―学校」『主流』同志社英文学会、26号、1964年])を卒業して、「帝国ホテルの通訳」となり、「取締に挙げられ、30余名を指揮するに至」った。だが、「昨年の夏英国貴族ロード・カーレ氏がホテルに宿泊するや、政吉は娼妓同様の新橋芸妓万八(28)を推挙して落籍せしめ、築地一丁目に妾宅を構えさせて、貴族とともに京阪地方を遊覧した」のであった。つまり、帝国ホテル専属の案内業者が、ホテル宿泊客の英国貴族に芸者を斡旋したということである。その後、「貴族の帰国に際し、万八と其妾宅を委托されしより、目下自宅へ引取り、夫婦同様暮し、二万以上の資産を造」ったと言われた。あくまで妾宅の管理を任されただけであろうが、当時は外国人の土地所有は禁止されていたから、恐らく英国貴族が小坂名義で土地を購入していて、小坂が事実上土地を「所有」するに至ったとも推定される。こうした小坂の非倫理的蓄財に対しては、「専横の所為もありしとて、同僚間に一方ならず、憎まれ」ることになった。

 一方、戸村藤一郎は、「智識を広」くしたいと満韓を視察したりしたのだが、帰京後「新橋の芸妓高野屋鈴子に馴染みを重ねて居た」のであった。40年6月9日に「英国紳士ハンガボードが投宿中、通訳となり毎日買物に出で居たるが、総て外人の買物には通訳者に商人より売上高の一割を手数料として受る習慣あり、依って戸村は紳士の買物に対し70円のコミッションを得た」のであった。これが遊興の資金となったのであろう。小坂は、これを知ると、日頃の蓄財批判への報復としてか、これを「暴露」して、「其金を紳士に返却せしめ」たのであった。ここに、戸村は、「益々小坂を憎み、万八事件などを吹聴して、頻りに罵倒し始め、犬と猿の有様とな」たのであった。帝国ホテル内の案内業者の醜悪な対立となったのである。

 戸村は小坂にかなり追い込まれ、12月17、8日には故郷の母と異父妹に「永の暇乞」をして、26日に帰京していた。12月30日朝には、戸村は知人の梶野龍三医師を訪ね、「少し旅行してくるから」と言った。また、「此暮は面白くもない暮だと悲観した様な事を云い、雑談して帰り」、「小坂に対しては憤怒の言語抔少も漏せし事な」かった。

 30日「午前一時」、思いつめた戸村藤一郎は、京橋区加賀町で小坂政吉を「六連発短銃」で射殺し、自らも「其場に自殺」した。「同じ仲間」の「京橋区加賀町四番地中野祐智(35)」が、「午前一時頃金六亭(新橋の江戸っ子料理店[『三府近郊名所名物案内』上巻、大正8年、日本名所案内社])を出で、加賀町まで来」て、この一部始終を目撃していた。彼は、帝国ホテルの外人宿泊客に、評判の江戸和食を紹介しての帰りだったかもしれない。中野によると、「戸村は突然短銃にて小坂の後頭部を射撃すると、小坂も驚きつつ仕込杖を抜かんとする時、第二の射撃は其咽喉を貫きて、どうと仆れて絶命」し、中野は「戸村を押へんとすると、忽ち銃を擬したるに恐れを抱き、南佐柄木町の派出所に訴へ出」たのであった。早速、「詰合の福本巡査が出張」したが、現場到着の前に、「戸村は既に自ら右胸部を射撃して絶息」していた(以上、40年12月31日付『読売新聞』「通弁、通弁を殺す」に依拠)。

 ホテルと芸者 案内業者の不正問題は連発銃、仕込杖の絡んだ殺人事件で頂点を極めたとも言えようが、これは、帝国ホテル、案内業者間に一大衝撃を与えたであろう。

 ここで、この殺人事件の背景ともいうべき「帝国ホテルと芸者」の関係を見ると、本論でも帝国ホテル林愛作支配人が指摘したように、帝国ホテルで食事する程度は何ら問題はない。そして、この事件では芸者と帝国ホテル専属通弁が関与していたが、@犯人が帝国ホテルの社員ではなく、あくまで専属の案内業者に過ぎなかった事、A帝国ホテルは、外国人と芸妓との密会の舞台、殺人事件の舞台になることはなく(犯人が帝国ホテルに迷惑をかけぬように配慮していたか、帝国ホテル側で厳禁していたかもしれない)、責任を問われることがなかった事からか、帝国ホテル側は責任を問われることもなく、『帝国ホテル百年史』(帝国ホテル、平成2年)にこの事件の記載はない。しかし、もし犯人が、帝国ホテル直属の通弁でなく、帝国ホテルのボーイなどであれば、帝国ホテルは営業停止処分を受けたであろう。

 また、宿泊者が芸者をホテルに連れ込み、ホテル社員がそれに関与していない場合には、ホテル側には問題はないであろう。しかし、その宿泊者が公職者の場合には、公職者はが厳しく追及されこそすれ、ホテルは、倫理的責任が問われる場合もないとは言えないが、表立って責任を問われることはないであろう。例えば、大正11年10月、香川県での陸軍大演習の統裁をするという「摂政宮行啓に関する重大任務」について「打合せに上京した香川県知事の佐々木秀司(43)氏が帝国ホテルに芸者を引っ張り込」むという「醜態事件」が起きた。この時、帝国ホテルは責任を追及されず、「此際風紀廓清の意味で氏を首にせよといふ意見も多」かったのである。摂政宮行啓に絡んだ上京だったけに、醜態への批判が増幅されたきらいがあったようだ。三ヶ月前の8月5日には、佐々木は葉山御用邸に滞在中の摂政皇太子の裕仁を訪問して、挨拶さえしていたのである(『昭和天皇実録』第三、693頁)。所が、「大臣(水野錬太郎内相)はその問題に就いては沈黙を守って、何事も云はない」ので、「佐々木知事はすっかり恐縮してしまい、問題になると、すぐ大臣へ宛てて涙の出るような手紙を出して罪を謝」したのであった。佐々木は明治40年東京帝大卒業と共に「手塩にかけて育て挙げた(水野の)秘蔵っ子」(大正11年10月6日付『読売新聞』)だったから、首にはなるまいとされ、実際、大正11年11月14日御召艦伊勢が高松港に投錨すると、佐々木秀司知事は摂政裕仁に拝謁している(『昭和天皇実録』第三、744頁)。だが、結局、大正12年11月依願免本官となっている。大正12年9月に加藤友三郎内閣が総辞職し水野が内相を辞して、佐々木がいずらくなったのであろう。ホテルは「人生の縮図」でもある。

 通弁の芸者斡旋 通弁が芸者遊びに手を染めるのは、恐らく裕福な外人が芸者遊びなどを通弁に頼み込み、いつしかそれが通弁の金づるになるという側面があったのかもしれない。

 これを傍証する芸者遊び事件が、明治31年に日光金谷ホテルの専属通弁によって引き起こされていた。日光では「従来岡崎家(料理店)とホテルの通弁等とは利益歩合の契約」をしていて、明治31年7月1日、「日光金谷ホテルの客引通弁島田八郎」は、日光滞在中の英国海軍士官候補生ら7名に80円で芸妓8人(11−20歳)の「緑眼児の日光名物裸踊」を「鉢石の料理店岡崎家」で見せて、日光警察署は芸妓のみ「風俗壊乱」で摘発し、島田らは「告発を見合わせた」(明治31年7月14日付『朝日新聞』)のであった。こういう警察の緩い態度が通弁を助長させたとも言えなくはない。

 通弁ではなく、ホテルのボーイが外人に芸妓を紹介する場合もあった。明治45年5月に、「大日本ホテル株式会社の経営する京都東山の大仏ホテルは・・漸く新築落成せしばかり」であったが、大仏ホテルのボーイ上田和三郎は「京都市七条新地貸座敷戸崎楼事戸崎芳太郎と結託して同楼の娼妓弥生、緑の両名を良家の処女の如く装はしめ、仏国人二名に売淫せしめた」(明治45年6月22日付『読売新聞』)のであった。上田はこの戸崎楼で遊んで、楼主と結託することになったのであろう。これに対して、七条警察署は「右娼妓二名に対しては娼妓取締規則違反として区裁判所に告発」し、同時に「府知事に上申」し、府知事は「楼主戸崎芳太郎に対して三ヶ月営業停止を命じ」た。大仏ホテル所轄松原署は、「ボーイ上田三郎及び同ホテル代表西村仁兵衛氏(大日本ホテル株式会社社長)を召喚し」、ホテルの一ヶ月の営業停止を命じた。この結果、「大仏ホテルに宿泊せし某国海軍将校未亡人ニスベット其他の外人は・・同一経営者たるの関係より・・都ホテルに転宿」(明治45年6月22日付『読売新聞』)した。ホテル協会幹事長の帝国ホテル林愛作支配人は「一か月間の営業停止なぞはホテル始まってのことだ」と慨嘆する。そして、帝国ホテルが「幸に開業以来此種の非難を受けないのは充分にボーイ共に対して監督を厳重にしているからである」(明治45年6月22日付『読売新聞』)とした。大仏ホテルは開業間もないために、こうしたボーイ教育・監督をする遑はなっかたのであろう。

 外国人と芸者 所で、戸村、小坂の軋轢の一因であった芸者とは、外国人にとってどのような存在であったのであろうか。

 倫理的にしっかりした東京帝国大学医科大学教授エルヴィン・フォン・ベルツでさえ、明治13年3月19日に弟子の岩佐侍医から「日本式の大宴会」に招かれ、「第三の舞」を踊った「少女」(14−16歳)を見ると、「実に可愛い女で、優しく美しく、上品な顔立ち」であり、「こうこつとするばかり」で、「動作は全く優雅で」、「この小娘に、ほとんど首ったけにならんばかり」となり、「どうしても女の名前を聞き出さねばならん」とまで思いつめるに至るのである。ベルツは、「芸者というものは、以前はネズミの鳴くような不快な声と三味線をひくことできらいだった」が、「今ではだんだん面白くなってき」て、「言葉が少しよくわかるようになってからは、時として洒落を飛ば」せるようになり、女たちも「はにかみがなくなり、打ち解けてく」れ、「知的、美的に教養の高い日本女性の一部を示す」とまで評価する。外国人には、芸者はいままで経験した事のない世界を見せてくれる存在だったようだ。そして、「どの男にも、彼が特に好かれているいうに思いこませる」、芸者の「巧妙な手練手管は驚嘆に値」するが、「さてとなると、最後の願望を許せば威力を失うことをよく弁え、身をそらし」、「常に期待を持たせるが、決して全部をゆるさない」のであり、「幾多の日本人が、こうして身を滅ぼしている」とするのである(菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第一部上、岩波書店、昭和37年、79−81頁)。

 最後に、ベルツは、「なかには、芸者であっても自身の心をしっかりつかんでしまった以上は、これと結婚するという正道を選んだ者もあ」りとして、「例えば、至る所で外人の会合に顔を見せている美しい某卿夫人は、もと芸者であった」(例えば、陸奥宗光の妻は新橋柏屋芸者小鈴、伊藤博文の妻は稲荷町芸者小梅など)と意味深なことを言っている。豊川市医師会史編纂資料第四集『ベルツ花子関係資料』(平成2年2月、23頁)は、ベルツは、「荒井はつ(元治元年[1864]11月生まれで当時16歳ぐらいだから、年齢的には符合する)をみそめ、この年か、遅くとも翌明治14年には、大学官舎で実質的な結婚生活に入る」としている。ベルツ友人のドイツ領事代理兼アーレンス商会役員のマイケル・ベアも日本女性と結婚していたから、当然、彼の助言を受けた事もあって、ベルツがこの女性と結婚したことは十分考えられる。ベルツ花子が、ベルツとの結婚事情などについて書いていないのは(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』審美書院、昭和8年5月)、当時の価値観では医学界の大功績者ベルツの名誉を貶めないかと配慮したのかもしれない。

 では、当の花子は芸者についてどう思っていたのであろうか。これについては、ドイツ滞在中のある「事件」が参考になる。弟が弁護士をしているドイツ人に嫁いだ日本人女性がいると聞き及んだのであろう、「ミ二ヘン(ミュンヘン)市に留学していたと云ふ人」が、朝八時頃ベルツ邸に、突然参られ、「近々日本に帰る者ですが、此の地に来てみると、行く先々の茶の広告に必ず芸者の絵が出ています。彼様なことをされては醜業婦の標本を諸方へ貼出して、広告して置く様なものですから、貴方の弟さんにでも話して、残らず剥がしてください」と、プンプンと怒気を含んで申され、さらに「私は此地で種々と勉強しやうと思って来ましたが、何處へ行っても待遇が悪るく、居心地も好くないから帰へる」と言った。そこで、花子は、「言ふことに事を欠いて・・職分外の事に口を入れるので、面白くなかった」ので、「芸者は立派に国税を納め公然稼業を致し居る者も、日本の芸者という名目は何方(いづかた)へ参らうと知らぬ者は居りません、貴方のやうな事を御仰りますと、日本の有名な浮世絵も取扱ふは勿論、展覧会等に陳列する事も出来ませんネ」と申しますと、「貴方は自分の国を侮辱なさる」と苛立ったのであった。花子は、対外的に日本の芸者の文化的側面に自信・誇りを持っていたようだ。因みに、「その後他の方から聞及びましたには、彼の方が滞留して居ると、友達の間に軋轢事(もめごと)を起して困らせるので、皆々相談の上帰って貰った」(ベルツ花子述『欧州大戦当時の独逸』審美書院、昭和8年5月、288−9頁)という人物だったことが判明している。
 
 また、明治24年世界一周途次に来日したフランス人のカヴァリヨンの場合は、「ある日フランス人のX氏と、横浜行きの列車を待ちながら、東京駅の近くの茶店にいた」時、「目立って美しい二人の娘が、とても質素な絹の着物を着て、髪を素敵に結い、過度に見せびらかす様子もなく、けばけばしさの無い暖色の帯を締め、裏を塗った下駄を履いているのが目にとま」り、横浜で降りた二人の美女に取りつかれたように人力車で後ををつけたのであった。後にこの「高貴な娘」は芸者であることが判明し、「この踊り子たちは、今夜の宴会のためにわざわざ東京から来た」のであった(E.カヴァリヨン「明治ジャポン 1891 文明開化の日本」[C.モンブラン他、森本英夫訳『モンブランの日本見聞記』183−4頁])。世界一周をするくらいの人物であるから、それなりの資産・信望もあるのであろう。その人物がつかれたように後をつけてしまうほどの高貴性、審美性が日本の芸者の中にあったのであろう。

 では、一般外国人は芸者をどうみていたか。昭和6年に、「国際観光局では、我が国に渡来した外人客がどんな感想を持ち帰るかを知るべく、今年二月以来の観光客から申告を受けていた」が、これをまとめた「雑件」の第五番に、「十年以内に芸妓以外に美しいキモノがなくなりはしないか」(昭和6年10月19日付『読売新聞』)という意見があった。ここでも、一般外国人が、芸者は美しい着物文化の「持続的」継承者と評価していることが確認される。

 当時、このように、外国人が美しい着物に強い関心を示していた具体的事例をいくつかあげてみよう。

 第一に、帝国ホテルのアーケード街に着物販売店があったことがあげられる。宿泊外国人に着物が売れるから、着物販売店があったのである。しかも、昭和6年10月29日に米国野球団31人が「殆んどカップル」で訪日し、帝国ホテルに宿泊したが、同ホテル「アーケードの売店中、最初に選手婦人御来店の栄を賜ったのはジャパニーズ・キモノを売る所で、ホテル到着早々夫人連が四、五人立寄っているのが見られた」(昭和6年10月30日付『読売新聞』)というように、非常に人気があったのである。

 第二に、昭和11年5月に来日した「百万長者」のガーデンクラブ一行114人(会長はミセス・バークレー夫人で、一行には裕福な未亡人が少なくなかった)の場合も、「お買ひ物は例に依って例の如くキモノ、ウキヨエなどが多」かった。だから、この新聞記事冒頭に「キモノ姿に喜ぶお客様」の写真が掲載されていた(昭和10年6月2日付『読売新聞』)。

 明治初年の通弁殺人事件 上記の通弁の殺人事件にもどれば、実は明治10年代にも、同じような通弁殺害事件が起きていた。

 「横浜蓬莱町二丁目の神奈川県士族清水甲子(かし、23)は、「兼て東京築地16番館の米国人ピットマン氏の通弁に雇はれ」、明治14年3月29日に「同所の西洋料理精進亭にて食事をして来るとて、同館を出たまま帰って来ぬ」ので、ピットマンは心配して清水写真を警察に添えて「訴へ」たり、「金五円の謝礼」で探索を依頼した。4月8日、少年が「京橋南鍋町」の海軍省練兵場の古井戸で死体を発見した。警察で検視すると、「短刀にて喉を突き、頭上に二三ヶ所之傷」があったが、腐敗のため自殺か他殺か不明とされた。「懐中より手帳」がでて、清水甲子と判明した(明治14年4月10日付『読売新聞』)。

 その後、警察が妻に、まず当日の夫の所持金を尋ねると、「金三十円と外に金側時計と金の指輪」を所持していたと答えた。次に、警察が「常々出入りの者」を尋問すると、妻は「旧通弁仲間」の町田喜三郎(24、本材木町)、宮内(後に宮氏と修正)義利(23、八丁堀)の二人をあげた。そこで、警察が彼らを呼び出して問い詰めると、町田の「所業に相違ない」事が判明して、「檻倉に拘留」していたが、彼は脱走した。警察は、町田が、「兼て金春の芸者を根引して、神田辺に囲ひ置き、同所を自宅同様にして楽しんでいる」と聞込み、同所に張り込んでいると、一昨夜「町田が忍び来て、保管中の宮内も来合せ、二人で何にか密談している所」を刑事巡査が踏み込み、二人を捕縛した(明治14年4月22日付『読売新聞』)。

 しかし、町田、宮氏の動機は単なる金目当てだけではなかった。ピットマンは、「兼て日本の廃銃を買い集めて香港に送るのを商業とし、甲子と・・名倉金次郎を雇入れて手先に使ひ、陸海軍の廃銃お払下の手蔓を求めたい」として、名倉金次郎懇意の町田貴三郎(同じ通弁仲間か)にこれを話すと、町田懇意の宮氏義利は「以前陸軍省の会計方を奉職して左様いふ事には巧者な男ゆえ同人へ話したらよい手蔓があるかもしれぬと、町田貴三郎が周旋して宮氏義利を金次郎に引き合わせ」たのであった。名倉金次郎は「主人ピットマン氏へ話して、義利を雇ひ入れる事」になった。名倉は宮氏義利が陸軍にコネがあるから、廃銃買集めに有利としてピットマンに雇入れさせたのである。当然清水は邪魔になる。清水は排除される危機感を覚えたようだ。「陸海軍の廃銃お払下げの周旋を義利に引受ける事になった後」は、清水甲子は居場所を失い馘首を恐れてか、「義利を打(たた)き出さんと、主人ピットマン氏へたびたび義利のことを讒言するのみか」、「同人を周旋した、町田貴三郎まで悪様に言ひ罵」りだした。両人は、清水甲子が「けしからぬ奴だと、立腹し」、「此一月中甲子の廃銃買集めの事にて何か同人と争論して、さんざん言籠められたを深く根に持ち、其後は一層劇く両人の事を讒訴するとの噂を聞く度ごとに両人は修羅(闘争心)を燃やし、さてさて憎き侫人(ねいじん、邪悪な人)め、此上は彼奴を殺し、此怨みを晴して呉ん」と、殺意を抱き始めたのである(14年5月8日付『読売新聞』)。ピットマンは清水を馘首しなかったが、名倉金次郎、町田貴三郎、宮氏義利の間で廃銃払下げビジネスが定着すれば、清水は不要になり、派手な生活は維持できなくなるであろう。外国商社において通弁と社員或いは通弁仲間との軋轢が爆発したのである。

 この明治14年通弁殺害事件は、通弁殺害、派手な生活などにおいて、明治40年通弁殺害事件は明治14年通弁殺害事件と相通じるものがある。通弁職務には、金持ち外国人を相手にしているうちに、自らも派手な生活にはまり、悪事に染まりがちな側面があったと言わざるを得ない。

 なお、The Japan Directory,1884では築地16番ピットマンを確認できず、この事件の影響で経営悪化して事務所を閉鎖したことが推定される。また、築地の立教女学院(築地)主任にフローレンス・ピットマンという女性がいて、明治15年にジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(宣教師、立教学校校長)と結婚するが(松波秀子「日光に眠るミッション・アーキテクト」『リクシル・アイ』1号、2012年11月)、本論のピットマンとの関係は不明である。

 通弁遊興 「派手な通弁」の中には、殺人事件こそ起こさなかったが、遊興生活で身を持ち崩す者もいた。

 例えば、川井松四郎(36、愛知県出身、前科二犯)は、「予て清韓及び米国へ渡航して外国語を能くする處より、外人の通弁抔をして紳士風を装ひ、烏森、赤坂抔に遊び、借金を拵へ身動きならぬ始末とな」った。明治42年、「労働者の群に入り、本年七月中より芝区白金三光町350番地東洋清潔会社へ雇はれ、間もなく同社の偽造領収書を造り、掃除代を詐取し、或は掃除先の隙を窺ひ金品を窃取」して、昨日「詐欺及び窃盗罪」で告発された(42年11月4日付『読売新聞』「通弁上りの窃盗」)。まさに、通弁は倫理の鎧をしっかり身につけていないと、あらゆる欲望の罠にはまってしまうということである。


 明治39年に通弁協会監督石神国太郎が「総ての通弁中には往々不良の徒も少なからざる」と指摘したり、大正8年にも内務省ー警察が志願者の素行、履歴の調査、合格者の監督を打ちだしたが、その背景には以上の如き現実的な諸事件があったということである。

                       d 日本観光株式会社

 一方、横浜では、合併で消滅した開誘社に代わって、日本観光株式会社が設立された。

 明治39年2月、「我国に来遊する世界漫遊客の便利に応ずる為め今回其道に経験ある横浜の有志」である高垣房吉、伊藤鶴吉、橋本喜太郎、染谷文蔵、清水義房、清水嘉宇一郎、大石貞吉、平潟清兵衛らが相謀りて、日本観光株式会社を組織し、「横浜、鎌倉、東京、日光、中禅寺湖、箱根、静岡、名古屋、京都、奈良、大阪、神戸に渉る旅行を定例とし、其他は漫遊客の望みに依る事とし」た。そして、「一定の金額、即ち一人一日二十円、五人迄の一組一人に付一日十六円、五人以上の一組一人に付一日十五円の定額を以て旅行直接の要用を一切引受け、旅館、船、車等総て一等の待遇を供し、且つ経験あり信用ある案内者を付して、日本の観光を軽便に満足に行ふを得せしむるの趣向を立てた」(39年8月27日付『朝日新聞』「日本観光株式会社設立」)のであった。
          
                       e 外国来賓案内同業組合 

 大正13年には、「日本全国に於ける案内業者は東京に百人、北海道に2人、神戸に80人、長崎に25人、横浜に83人、合計390人」となり、彼らは 今回横浜に大島光太郎発起で「賄賂を取らぬため」外国来賓案内同業組合を結成して、その筋に認可願いを出した(大正3年11月26日付『読売新聞』)。こういう組合をつくるということは、正当料金以上の「賄賂」をとることがいまだに行われていたことを物語っている。

                       f 日本観光通訳協会

 昭和14年8月15日、「非常時日本に来朝する外人を案内して真の日本の姿を認識させ、国際観光事業の振興に尽くしている観光通訳案内業者(ガイド)の相互の連絡協調と人格地位の向上、業務の研鑽改善を図るため今度国際観光局の斡旋で『日本観光通訳協会』が誕生、その創立総会」が鉄道省で開催された。

 この頃の全国二百名のガイドは、ホテル専属ではなく、「郵船、商船の各船長と連絡し、その商会で外人客を世話するといふ非常に消極的な状態であった」ので、「今後は新しい協会によって積極的に働きかけることにな」るとした。

 会長には鷹司信輔公爵、役員には片岡観光局長、外務、内務、警視庁、国際文化振興会などの有力者二十数名を委嘱するとした(昭和14年8月10日付朝日新聞)。

                            おわりに

 以上の考察から、第一に、明治7年5月31日「外国人内地旅行允準条例」で内地旅行外人は通弁の確保が必要となったが、明治期の通弁(通訳案内業者)は、条約改正前の特殊日本的な労役のみならず、通弁間競争や外客訪日季節性などで通弁経営不安定で、構造的に不正行為の温床になりやすかった事が指摘されよう。内務省・警察や府県は、取締規則で対応しようとするが、緩い罰則で十全な効果を発揮しなかった。

 第二に、女性が、こうして倫理的にまだまだ未熟で不正行為に陥りがちな通弁になることは、心身ともに容易な事ではなかった事が指摘されよう。明治43年に横浜で初めて登場した三人の女性通弁が、英語を活かす道を他に求めて通弁を廃業したという資料はないが、以後も共同事務所が経営的に安定して存続していったという資料もない。だが、彼女らが相談した日本観光株式会社の通弁が、朝日新聞記者に語ったと同様の趣旨、つまり「結局成功は困難」という基調の見通しを語ったとすれば、当初から起業意欲をそがれて、共同事務所が長く存続した可能性は低かったであろう。

 もともと、通弁は、戦前の訪日外客は約2万ー5万人未満、滞在外国人2千人前後(大正8年1600人)という狭い市場を生活基盤にしていたから、志願者も少なく、その免許所有者数も390人(大正13年、東京100人[大正8年83人]、横浜83人)、約200人(昭和14年))と少なかった。これは、通弁になっても、生活できずに、転職を余儀なくされる者も少なくなかったを示している。新規参入の女子通弁の生きる基盤は非常に脆弱であったといえよう。

 第三に、当時の通弁は、心身疲労を随伴しつつ、時代の最先端の職業をゆくかのような「派手な通弁」と実直勤勉な「地味な通弁」を両極にしつつも、学術的な調査旅行には通訳専門家など生み出し、前者の「派手な通弁」類型の中には、一時的高収入の欲望に負けて、ホテルや外国人から不正な金を得ようとして、やがて「醜悪」事件を引き起こす者もいたという事が指摘されよう。これは、単なる取締規則のみなず、通弁教育における倫理・規範の必要性を再確認させよう。
 
 
 


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